見出し画像

どうする関ケ原、上杉討伐と石田・大谷挙兵・細川ガラシャの死(大河ドラマ連動エッセイ)

 大河ドラマ「どうする家康」に連動して、「どうする関ヶ原」を書いてみました。今回は、徳川家康による独断政治と上杉景勝討伐、石田三成の挙兵、細川ガラシャの死を描きたいと思います。よろしくお願いいたします!
 徳川家康が、「暗殺風聞」事件を利用して、大老の前田利長を失脚させ、大阪城で豊臣秀頼の補佐役となった前回のお話は、以下をクリックしてくださいね。

(諸大名が大坂に集中)
 1599年9月、家康は、大坂城西の丸に入った後、同地に天守を模した建物を建てます。その威光は高まり、秀吉の遺命で伏見に屋敷を持っていた西国大名は、勝手に大坂に屋敷を構え、移ります。秀吉の遺命で、家康と西国大名は伏見、秀頼と前田と東国大名は大坂という、バランスは崩れ、秀頼と家康と多くの大名は大坂に集まることになりました。伏見には、大老の毛利輝元、宇喜多秀家、大名は島津義弘(忠恒の実父)くらいになります。

(家康、宇喜多家騒動に介入)
 1599年暮れ、五大老の一人、宇喜多秀家の家中(領国備前)でお家騒動が起こります。これは、秀家直属奉行と、親族・譜代家臣との間の争いでした。詳細は省略しますが、親族・譜代派は大坂にあった重臣屋敷に武装し、立てこもります。このとき、武装した家臣は約250名とされます(家中の武士1400人)。この騒動の仲介に、奉行格の大谷吉継と徳川家臣の榊原康政が動きます。最終的に家康の裁定があり、親族・譜代派の主張が通ります。直属奉行派は関東へ蟄居を命じられ、あるいは宇喜多家を自ら去りました。秀家としては、家中の騒動に介入され、また、自らに近い奉行派が排斥され、家康に対する恨みが生じたことでしょう。
 この後、翌1600年5月、秀家は譜代派を処罰し、彼らは家中を去ります。反目していた双方の重臣を失ったことになります。重臣たちを失った秀家は、関ヶ原の戦いで十分な戦闘指揮ができなかったのではないでしょうか。
 また、仲介役となった大谷吉継は、秀家直属奉行を擁護しており、家康の裁定に疑念を持ち、このことから反家康派になったのではないかとみられます。

(家康、独断で領地宛がい)
 1600年2月1日、家康は、他の大老が領国へ帰国していたこの時期、領地宛がいを行います。森忠政(美濃兼山7万石)に、北信濃6万7千石と豊臣家蔵入地を与えます。忠政の所領は12万石となりました。森家はもともと織田家家臣でした。秀吉死後、家康に接近していました。父森長可が織田信長より北信濃を下されており、旧領への復帰を願っていました。
 この忠政に与えられた土地ですが、元は越後とともに、大老の上杉景勝の領地でしたが、1598年、秀吉が景勝を会津に国替えさせ、北信濃は、田丸直昌(川中島4万石)、関一政(飯山3万石)が入り、残りは豊臣家の直轄地になっていました。北信濃は、徳川領の関東から中山道を通る際の経路になります。上田の真田昌幸とともに、田丸、関らは徳川軍を抑える役割が期待されていましたが、田丸、関は美濃に領地替えとなり、後に家康の裁定で、森忠政が入ったわけです。
 同月7日、家康は三奉行とともに、細川忠興(丹後宮津12万石)に豊後杵築6万石を与えます。理由は書かれていませんが、明らかに「七将襲撃事件」「家康暗殺風聞事件」での働き(加藤清正ら豊臣恩顧大名をまとめ、石田三成への強訴をさせる、江戸に人質を出し、前田利長に降伏を勧める)への論功でした。
 
(上杉景勝討伐へ)
 3月、上杉家家臣藤田信吉から、上杉景勝の謀反計画が江戸の徳川秀忠に伝えられます。同月、越後の堀直政(堀秀治家臣)からも景勝が、新城を建築していることが伝えられました。家康は景勝に上洛を求めますが、景勝が上洛に即応しなかった(讒言者の究明を条件とした)ことから、4月以降、家康は景勝討伐の準備を進めます。
 家康が景勝に上洛を促す際、「朝鮮への再出兵を計画しているので、協議したい」と申し送っていますが、このことは注目されます。朝鮮に出兵した大名は、多大な財政負担を強いられており、論功を求めていました。しかし、彼らに与える領地はありません。朝鮮再出兵には、前田利長、宇喜多秀家の名前が上がっていました。家康にとってこの二人は目の上のたんこぶであり、仮に朝鮮で領地を得られればよし、得られなければ、二人の領地をけずる、そんな思惑が見えてきます。結局、景勝が上洛に応じなかったため、景勝討伐となり、朝鮮再出兵はとりあえずなくなります。
 6月6日、家康は在大坂の諸将を集め、会津攻撃の部署を定めました。家康・秀忠は白河口から、佐竹義宣は仙道口から、伊達政宗は伊達・信夫口から、最上義光は米沢口から、前田利長は越後津川口から、攻め入ることとしました。
 6月16日、家康は大坂を出発し、景勝の領国会津を目指します。まず、江戸で軍勢を整え、7月10日以降に出陣することとなりました。この出陣は、三奉行名で行われており、豊臣政権としての出兵となりました。
 上杉討伐には、多くの大名が動員に応じました。上杉の領地目当てといっても、たとえ、上杉領が没収となっても、伊達政宗(陸奥)、最上義光(出羽)、堀秀治(越後)、蒲生氏行(下野)などが加増対象でした。東海以西の大名にうま味は少なかったと言えますが、おそらく朝鮮再出兵を見据えて、家康の覚えがよくなることを期待していた、朝鮮で功績を上げやすい配置を期待していたと考えられます。

(大谷吉継と石田三成の挙兵)
 敦賀の大谷吉継も兵を率いて、関東で家康軍に合流する予定でした。7月2日、敦賀を出て、美濃の垂井に到着します。ここで近江佐和山の石田三成の軍勢と合流するとされていました。ここで吉継は、佐和山へ向かい、三成と会い、反家康で挙兵する計画を話し合います。
 これまで、反家康挙兵は、三成が吉継を誘ったと見られてきましたが、最近は、吉継が三成を誘ったとも言われています。真相は不明ですが、同月1日、関東の家康のもとへ向かう、丹後の細川忠興が近江米原を経由しています。あたかも吉継は忠興の近江通過を確認してから、敦賀を発ったように見受けられます。忠興より先に関東へ進軍していれば、後ろに忠興がいるために、吉継は戻ることはできません。吉継の行動は謎めいていますね。
 7月11日、三成と吉継は反家康で挙兵することで合意したとされます。これまでは三成が、吉継を説得するのに一週間ほど要したと解釈されてきました。逆に吉継が三成を説得するのに時間がかかったかもしれませんが、考えられるのは、二人には時間が必要だったということです。
 結果から言えば、家康の進軍の状況を見極めることです。家康は7月1日に江戸城に入っています。家康は大坂を出る前に、増田長盛ら三奉行との間で、会津出陣は7月10日以降と決めていました。多くの大名が参軍するため、目安の期日を決めておかなければならなかったわけです。参軍する大名は、10日までに関東に在陣していなければならない、というわけです。
 三成と吉継は、上杉討伐軍の多くが関東入りした10日前後に決起しました(なお、家康は7日に、会津出陣を同月21日と決定します)。

 もう一つ重要なことは、これも結果から言えることですが、西軍、つまり大坂の増田長盛ら三奉行の反家康の決起(Xデー)が7月17日と決まっていたことです。これはどういうことか、というと、西軍の決起は二段階で計画されていたということです。

(人質要求と細川ガラシャの死)
 7月10日前後の三成と吉継の決起、そして17日の三奉行の決起、というものです。三奉行は12日、広島にいる毛利輝元に、大坂入りを求める手紙を送ります。この手紙には明確に書かれていませんが、表向きの理由は三成・吉継の挙兵への対策としてです。
 三成と吉継は、近江から東へ行く街道を封鎖し、大坂へ戻るように求めます。吉継は奉行格であり、佐賀の鍋島勝茂軍はこれに従い東征を注視しました。
 
 12日、大坂の三奉行は、三成と吉継の大坂来襲を名目に、大坂にいる大名の妻子に大坂城などに入るように命じます。ほとんどの大名はこれに従います。問題となったのは、細川忠興夫人玉子(ガラシャ)でした。
 三奉行は17日、細川屋敷に兵を派遣して「大坂城でなくてもよいので、宇喜多屋敷に入るように」との指示を出します。宇喜多夫人豪姫は、忠興の嫡男忠正夫人千世の姉でした。ガラシャはこれを不信に思ったでしょう。「宇喜多家に入れというのは、宇喜多家からは人質をとっていないのではないか。宇喜多と三成ら、そして三奉行は一味ではないか」と。三成が失脚した七将襲撃事件の中心人物は、忠興でした。ガラシャは、「三成と忠興とは手切れの関係であり、人質となれば、非道の扱いを受ける可能性が高い」と考えたようです。ガラシャは、忠正夫人千世を宇喜多家に入るように命じました。細川屋敷を囲んでいた兵は解かれたようですが、ガラシャは自害します(家臣に自分を殺害させます)。
 ガラシャの自害は、「三成を失脚させた夫忠興に、自分が人質となっていることで、三成と戦えないということがあってはならない、憂いなく三成と戦うように」という思いからであったと考えられます。
 ガラシャは明智光秀の娘でした。光秀の織田信長への謀反の後、帰る実家を失います。忠興自慢の美貌の織田家筆頭家臣の妻は、謀反人の娘という忌まわしい存在に変わりました。拠り所のない彼女は、キリスト教に入信します。
 辞世の歌は「ちりぬべき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」。「花は散るときを知っているからこそ花として美しい。人間もそうであらなけれならない。今こそ散るべきときである」という意味です。細川忠興は、死ぬときまで織田信長を尊敬していたと言います。本能寺の変の後の彼女の人生とは何だったのでしょうか。彼女も美しい花であるように、ずっと、ちりぬべき時を待っていたのかもしれません(つづく)。


(つづく)。
 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?