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どうする信長(最終回)、明智光秀をどうする?(大河ドラマ連動エッセイ)

 大河ドラマ「どうする家康」に連動して、織田信長のどうする?「どうする信長」を書いてみました。ドラマは、1582(天正10)年6月の本能寺の変、明智光秀軍による織田信長への襲撃が描かれていました。恐れ多くも上様とのお別れのみぎりとなり、どうする信長も今回が最終回となります。やはり最後のどうする信長は、明智光秀をどうする?です(上の写真はNHK「麒麟がくる」より)。
 本能寺の変を起こし、信長に謀反する光秀、信長は、光秀が謀反するとは考えていなかったようです。5月15日より、安土城で徳川家康の饗応を行っていた光秀は、5月17日、備中で毛利軍と戦っている羽柴秀吉の援軍を命じられ、居城の丹波亀山に帰り、一万以上の軍の動員を行います。信長はわずか100名足らずで、5月29日、京都の本能寺に宿泊します。亀山との距離はわずか20キロでした。光秀が謀反するとは、考えていなかったようです。
 
 光秀は、1579年の丹波攻略後、領国となった丹波で、軍法を制定し、軍役の規定を明文化し、兵科別編成を行います。鉄砲、弓、騎馬、歩兵別編成というものです。これは、上杉や武田など東国で行われていたもので、畿内、西国、織田家中では初めてでした。信長の許可は得ていたと思われますが、信長は、既に軍事力では、毛利、長曾我部など当面の敵は圧倒しており、家中で、兵科別編成を命じた形跡はありません。
 明智軍は、1582年3月の武田攻めに従軍しており、実際の戦闘は行われませんでしたが、兵科別編成は、信長の注目を浴びていたはずです。信長は、毛利との備中の戦闘で、光秀に新編成の実戦をさせる考えもあったかもしれません。
 信長は、光秀を含め、摂津や丹後の援軍も加えて、備中で毛利と決戦し、これを破り、九州まで攻め込むと手紙に書いています。一方、光秀は、備中の後は、伯耆に向かうとされていました。伯耆から出雲と山陰を攻め込むことも考えられました。そうであるならば、山陽を進むであろう、織田本軍と異なり、山陰を光秀に任せることには合点がいきます。山陰は光秀、つまり、新編成の軍隊に実戦を任せる、というものです。
 
 毛利攻めでは、もう一つ問題がありました。備後の鞆に滞在する将軍足利義昭の処遇です。義昭については、将軍退位、出家という後に秀吉がとった対応も考えていたのでしょうか。信長との感情的わだかまりがある中、義昭がそう簡単に信長に服するかは難しいところですが、義昭と連絡をとる可能性は考慮していたと思います。そうなると、光秀がこの職務を担当する可能性がありました。
 
 光秀の謀反については、諸説ありますが、最近の有力説は、光秀の家臣の斉藤利三に対する信長の怒りとされています。利三は、もともと美濃曽根城主の稲葉一鉄の家臣でしたが、一鉄と仲たがいし、稲葉家を去り、光秀の重臣となっていました。1582年、利三は、稲葉家の家臣である那波直治を明智家に引き抜きます。一鉄は信長に訴え、那波は稲葉家に戻ります。また、信長は利三の切腹を光秀に命じます。光秀はこれに抵抗し、信長の折檻を受けたとされます。
 利三の義理の妹が土佐の長曾我部元親に嫁いでいたことから、光秀は、長曾我部との取次を担当していました。当初、織田と長曾我部との関係は良好でしたが、信長は、四国の支配の中心に三男信孝を考えるようになり、阿波(徳島県)からの撤兵を長曾我部に要求し、長曾我部がこれに難色を示すという状態となっていました。信孝軍の四国渡海が1582年6月に準備されており、長曾我部と交戦となる可能性もありました。長曾我部が阿波から撤兵しないため、光秀は四国担当から外されてしまいました。こう見ると、光秀の立場は相当悪くなっており、上の二つの状況が謀反と原因とみられます。  政治的には、光秀は信長、信忠と縁せき関係は築けておらず、この点は脆弱でした。追放処分になった佐久間信盛も信長と縁せき関係はありませんでした。つまり、切り捨てやすかったと言えます。信長がそう考えていたのかはわかりません。光秀がそれを恐れていたということはそうなのかもしれません。


 信長は、光秀の子である光慶が成人したら、娘などを嫁す考えはあったかもしれません。なぜなら、もう天下統一は目前で、今後は行政能力がより求められるようになります。信長にとって長く京都奉行を行い、公家や寺社との交流もあり、丹波の統治で実績を上げていた光秀は、代わりのいない欠かせない存在でした。他の家臣と同様、姻戚関係を築く可能性はありました。
 
 ただし、光秀にとって信長はどうだったのでしょうか。丹波という領国を得たことで、光秀は自らの行政を行い、自らの軍隊をつくる機会を得ました。大名になった光秀は、その権力を知り、使い、信長を見る目も違ったものになったでしょう。光秀は、大名になったことで信長に近づいたのです。
そうした光秀に信長は、何等かの対応をとった形跡がみられません。
 信長は丹波大名の光秀をつくりました。光秀は、独自の政策を行う優秀な大名となりつつありました。明智光秀をどうする?ですが、信長は、選択をしませんでした。
 光秀は自分の創り上げた軍隊を使いました。それは毛利ではなく、京の信長に対してでした。ただ、多勢に無勢、実戦というものには遠く、これまで敵国であった丹波の国衆や兵に士気がどれほどあったのかは、わかりません。武田攻めの際に、明智軍(と大和の筒井軍)の士気が低かったとも記録されています。信長は、譜代でない兵がどれほど働くか、懐疑的であったと思われます。信長は光秀の足元をみていたのかもしれません。
 光秀は山崎の合戦で、羽柴秀吉に敗れますが、秀吉軍は1577年10月以来、播磨、但馬、淡路、備前で兵糧攻めが多いとはいえ、4年半以上、継続して苦楽をともにした軍隊でした。光秀軍も丹波信仰の初期から参軍していた将兵もいたとは思いますが、軍役はこの2~3年、ほとんどありませんでした。光秀にとっては秀吉軍は兵力も自軍より多く、少々条件が悪い戦いだったかもしれません。

 どうする信長は、今回で最終回です。傑出した戦国大名であった信長公の天下取りの軌跡を私なりの観点で解釈してみました。当時の家臣の間でも信長観はそれぞれであったと思います。現代のみなさんの信長観、信長公と信長公のどうする?もそれぞれだと思います。信長公から学ぶことは少なくありません。我々が信長公から学んでいることに、信長公も喜ばれていることと思います。
 また、人生の途中で、信長公に触れあえる機会が多くあることを願っています。ありがとうございました。

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