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どうする信長、信忠と家康(大河ドラマ連動エッセイ)

大河ドラマ「どうする家康」に連動して、織田信長のどうする?「どうする信長」を書いてみました。ドラマは、1582(天正10)年5月、「家康が駿河をいただいたお礼に、信長の居城安土城へ挨拶に行く、信長は、家康の長年の武田との戦いの労に感謝し、もてなし、京、堺の見物を勧める」というシーンでした。
 当時、日本でキリスト教の布教をしていた宣教師フロイスは、明智光秀が自軍の兵に対して、「敵は本能寺にあり」と伝えた際に 「兵は、家康を討ち取るのではと思っていた」との内容を記録しています。この記録どおりに、信長は、家康を討ち取る予定だったのでしょうか?今回のどうする信長は、家康をどうする?です。
 この家康討ち取り説は、以下のようないくつかの状況証拠が指摘されます。
家康は用済みになった。武田を滅ぼした後、家康の価値は大きく低下した。
②家康の領土は三河、遠江、駿河と大きくなりすぎた。信長の本国である尾張の隣国でもあり、織田家にとって脅威である。
③武田攻めの後、信長や明智は、徳川領を通過して帰国しており、これは徳川攻めの際の地理の観察の意味があった。

①については、家康も痛感していたでしょう。信長のすすめで、京都、堺を遊覧しながらも、信長の中国攻め、四国攻めの方針を知ると、自国に対して、「帰国後の西国出陣」の用意を命じています。
②についても、家康は痛感していたでしょう。織田家に脅威と感じられないために、どうすればよいか、家康はいろいろ思案していたでしょう。

 信長が家康を討つ理由は、もっとものようですが、逆の理由、家康を引き続き用いる理由も考えてみましょう。
①信長は、当主(北条氏政)が自分にあいさつに来ない北条を警戒しており、かりに北条と戦う場合、徳川はその先兵になる
②これも同じ理由で、北条や関東、東国ににらみを利かす上で、徳川の国力、軍事力の大きさは有効である
③現在、信忠は岐阜を居城としているが、将来、信長が老いれば、信忠は、安土に移る。その場合、東国の抑えとして、家康は有効。
④当時、信長は、中国で毛利と、四国で長曾我部と、越中で上杉と対戦しており、家康を討ち取り、三河へ攻め込むのは、軍事の常識から考えにくい。

などです。
 家康は、信長にとって親しみやすい相手だったと思われます。もちろん能力も評価していたでしょう。頼りになる従属的同盟者です。徳川の扱いは、今後、北条や降伏するであろう九州の数か国持ち大名のモデルになるもので、彼らの帰属を安堵させるうえで、家康は大切に扱われるべきものでしょう。

 他方、家康にとって信長はどうだったのでしょうか。同盟者から、従属的地位になるまで、武田に対して、独自の軍事力では立ち向かえない家康は、信長の兵力、武器弾薬、兵糧などの支援が欠かせませんでした。家康は信長を頼りにしていました。他方、1579年に結ばれた徳川・北条の同盟により、
家康の織田への依頼は多少、軽減されました。一方で、大坂の石山本願寺と和睦し、北陸や中国で勢力を拡大する信長の脅威は増していました。(大河ドラマでは、妻子を死に追いやった責めを信長に帰し、その復讐をする、という筋書きです)

 信長の権力の弱点は、法的根拠に弱いところで、征夷大将軍、関白、太政大臣(いわゆる三職)でもなかったところです。その指示や命令は軍事力を背景にしたもので、必ずしも朝廷の意思による官軍でもありませんでしたし、支配も自らの領土(分国)を拡げていっている戦国大名のやり方と変わりませんでした。武田滅亡後に行った武田遺領の領土宛がいも、織田家の私的差配という性格でした。つまり、法的地位は他の遠国大名の絶対的支配者というものではなかったことです。彼らは、表面上は、力に屈伏しますが、それはあくまで私的な関係で、状況が変われば、臣従は覆される可能性がありました(本能寺の変後、実際に北条などは織田領に侵攻します)。
 家康は、この点に気づいており、上に書いたように、自らが遠国大名の臣従化のモデルとなる役割を果たそうとしますし、やがて出現する信長権力の法制化の行方を見守っていたのではないでしょうか。

 信長権力の法制化、つまり三職のいずれかへの就任は、中国と四国攻めの終了後、つまり勢力範囲をさらに拡大した後、行われる可能性がありました。家康としては三か国の太守となりましたので、官位の昇進も想定されるところでした。織田に従う大名の中で、どのような位置づけになるのかは、自他ともに関心をひくところであったでしょう。ならば、この中国攻めにはなんとしてでも、参軍して、忠義や軍功を上げなければなりません。
 
 これは、今後を見据えた際、非常に重要なことですが、来るべく信忠の権力承継後の体制で、どのように関わっていくか、も家康は考えざるを得ませんでした信長・信忠家臣団との交流、彼らの情報収集、信長に従属した今の家康にとっては、それが重要です。武田の相手をしていた時期とフェーズが変わっているのです。

 逆を返せば、信長もそれがわかっており、家康に、家臣団との交流や情報収集を促す、そういった機会を安土参詣や上洛の機会に与えていたと思われます。毎日の宴会は楽しむためでなく、そうした政治的意味があるのです。

 安土では、京都を取り巻く地域を支配する近衛師団長ともいうべき、明智光秀が接待を行いました。京、堺には、信忠が同行します。
 堺では、甥の津田信澄、丹羽長秀が家康の接待を行いました。京都では所司代の村井貞勝という具合です。

 信長の有力側近で誼を結ぶべき相手としては、大名化しつつあった菅屋長頼(越前府中)、矢部家定、福冨秀勝、堀秀政(近江長浜?)、長谷川秀一、猪子一俊(近江北部)などがいました。このうち、長谷川秀一は、家康の堺行きに同行します(伊賀越えも)。
 そして信忠付き家臣ですが、斉藤利治(加治田城主:岐阜県富加町)、団忠正(岩村城主:岐阜恵那市)、坂井越中守、毛利良勝なども重要です。 しかし、本能寺の変で、信長だけでなく、信忠、そしてその家臣、側近も多くなくなっています。家康は、ポスト信長の家臣らと深い関係が築けませんでした。
 しかし、このことは結果として家康にとっては好都合でした。家康は、その後、甲斐と信濃の多くを手に入れますが、家康は、この地を領していた信長信忠家臣らに義理を果たさなければならない(領土保全を支援する)状況が生まれませんでした。甲斐では、領主の河尻秀隆に美濃への帰参を勧める一方で、旧武田家臣に知行安堵をするなど、当初より自領への併合を考えていたようです。

 信長が家康をどう遇しようとしたのか、家康が堺から京へ帰り、信長に面会した際に、信長がどのような発言をしようとしたのか、新たな難しい指示を出す予定だったのでしょうか。謀略による北条工作では、などと思ったりもします。
 大河では、本能寺の変の家康黒幕説の展開でしょうか。穴山梅雪の死亡、伊賀越え最中の甲斐工作の指示、そして上に書きました河尻秀隆への美濃帰参の推薦、など家康は怪しい動きをしています。いずれにしても信忠家臣との関係が親密でなかった、ということもその一因になっていると考えられます。

 5月27日、京で家康を接待していた信忠は、信長側近宛て書状で、「信長の中国出陣が決定したので、堺へは行かず、京で信長を待つ」と伝えています。5月28日、家康一行は、京を出発し、堺へ向かいます。信忠は京に残りました。信長の中国出陣の決定がもう少し遅かったら、信忠は家康とともに、堺へ行き、京で、謀反の明智光秀軍に倒されることはなかったかもしれません。信忠と家康の運命のたどる道は、微妙なところで分かれたことになります。


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