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どうする関ケ原、家康のクーデターと石田三成失脚(大河ドラマ連動エッセイ)

 大河ドラマ「どうする家康」に連動して、「どうする関ヶ原」を書いてみました。今回は、大老前田利家の死後、徳川家康と通じた加藤清正ら七名の大名が、奉行の石田三成を襲撃した「七将襲撃」事件を描きたいと思います。よろしくお願いいたします!
 前回のお話は、以下をクリックしてください。

(前田利家の死去)
 1599年閏3月3日、五大老で、幼少で豊臣秀頼の補佐役であった前田利家が大坂で死去しました。
 秀吉の遺言で、前田利家に何かあれば、息子の利長(加賀越中で約110万石)が五大老も引き継ぐと決められており、利家の病が重くなると、利長は既に大老の職を始めていたようです。前田利長は、1562年生まれの38歳、位も権中納言でした。夫人は織田信長の娘で、姉妹は宇喜多秀家、細川忠興の嫡男忠隆などに嫁いでいました。また、父利家が、秀吉の親友で、秀吉の相婿(夫人が姉妹)である奉行の浅野長政も利家、利長と親しい間柄でした。

(三成の伏見避難)
 公家などの日記では、前月の3月27日、大坂で騒乱の推測情報あり、同29日、伏見で騒ぎあり、閏3月1日、伏見で騒ぎあり、と記録されています。
 利家死去の翌4日、大坂の石田三成のもとへ、加藤清正ら数名大名が、三成を襲撃しようとしているという情報が入ります。三成は、佐竹義宣(常陸水戸54万石)の護衛で、伏見城内の石田屋敷に移動します(秀吉の遺命で、佐竹など東国大名は大坂に居住し、西国大名は伏見に居住していました.)。清正らは、伏見城には入れず、城外の徳川家康屋敷へ行きます。清正らは、三成の捕縛か、処罰を求めたと思われます。切腹を求めたという記録もあります。
 三成は、大坂城には入りませんでした。このときの門番警護は片桐且元、小出秀政でしたが、家康と親しい人物であり、警戒した可能性があります。そもそも「大坂城へ入るところを襲う」という情報だったかもしれません。三成は、伏見城には城内に屋敷を持っていたので、伏見城に逃げたわけです。清正らも城内に兵を入れることは、豊臣家への謀反にあたりますので、できませんでした。
 清正のほか、伏見で家康に要求を行ったのは、浅野幸長、蜂須賀家政、福島正則、藤堂高虎、黒田長政、細川忠興の七人で、一般には七将(襲撃)事件と言われます。七将が三成を襲撃する態勢だったのか、交渉を前提としたものなのかはわかりませんが、彼らは武装し、徒党を組んでおり、このことは豊臣政権における重大な違反行為です。

(非常体制での対応)
 七将の「要求」を受けた家康は、対応の協議を行います。記録によると、仲介の協議相手は、北政所、大谷吉継、毛利輝元(伏見在住)、上杉景勝(伏見在住)が判明しています。奉行の増田正盛、前田玄以は伏見城(3月9日)で、三成と一緒となっており、協議に加わっていなかったようです。三成とともに、七将の排斥訴えの対象だった可能性があります。浅野長政は、嫡男の幸長が七将に加わっており、協議参加は微妙な立場でした。
 五大老では、大坂にいた前田利長、宇喜多秀家が協議に加わったかもわかりません。利長は父の忌中でありました。北政所、大谷吉継(越前敦賀5万石、秀吉の側近で奉行並み)らが加わっており、他の大老・奉行が加わっていない(可能性が高い)非常体制での事案対応になりました。これは明らかに秀吉の遺命に背くものですが、北政所(や大谷)が出てきたのは、そうしなければ、七将による三成殺害が行われてしまう可能性が高いと判断したからでしょう。

(七将の三成排斥の理由)
 ところで、七将の三成排斥での理由は、何でしょうか。朝鮮での軍事行動についての讒言とされています。確かに、蜂須賀、黒田は「臆病行為があった」として、かつて秀吉のけん責を受けていますが、蜂須賀、黒田の処分の監察(目付)及び、奉行間議論に三成は関与していません(会津、越後に出張中)。しかし、軍目付が三成の妹婿の福原長堯であること、福原はその後、加増を受けており、これに三成や奉行が関わっていることを七将は問題視したのでしょう。
 ただ、蜂須賀、黒田は領地減少の処分は受けていません。他の大名も領地を減らされていません。論功をもらえるはずがもらえなかったという不満があるかもしれませんが、切腹や殺害を求めるのとは、どうも理由と行動がアンバランスと感じます。こういったこともあり、七将襲撃はなく、訴えであったという指摘もあります。しかし、襲撃ではなくても、武装徒党による「強訴」であったことは否定できないと考えます。
 また、加藤清正は、朝鮮での文禄の役の際の目付だった三成、増田、大谷吉継を、自らを讒言したとして恨んでいたとされます(清正は処分は受けていません。帰国命令は明使節出迎えのため)。
 福島正則、蜂須賀家政は、家康との「婚姻」を、四大老と五奉行に止めされたことを恨みにもっていたでしょう。

(家康の行動と三成の処分)
 家康の行動はどうだったのでしょうか。閏3月5日、浅野幸長軍の伏見入りを認ました。独断で軍隊の移動を認めており、秀吉の遺命に背くものでしょう。このほかの軍勢もあり、伏見のまちは兵が集まっていたようです。また、家康は、情報を七将に伝えたり(同5日)、藤堂高虎から大坂の状況の報告を受けた(同8日)りするなど、七将側と密な連絡をとっています。上に書いたとおり、七将の武装徒党は、重大な違反行為であり、根回しがなければ、実施できないものです。その根回しの相手とは家康だったのではないでしょうか。
 結果、三成の引退(奉行解任、三成の息子が大坂に出仕します)、居城の佐和山城の退去が決まります。この決定への議論の過程は不明ですが、七将の三成殺害の意思(表向きは切腹要求か)が強かったことから、三成の命を助けるには、適当な決定とも言えます。また、三成の引責は、慶長朝鮮の役の目付の福原らと親しいということが災いしたようです。
 記録によると、増田正盛も七将から訴えられていましたが、処分はありませんでした。有力奉行二人が失脚すると政務は回らなくなるとみられ、増田の無処分は、「落としどころ」だったと言えます。ただ、清正らは、これに不服で、増田の処分がなかったことに怒りがおさまらなかったとも言われます。これはその通りかもしれませんし、家康と清正らの「芝居」だったかもしれません。家康は、もともと伏見在番の増田とは、よく連絡していました。つまり、清正らは、今度は「増田を追い落とすぞ」と威嚇します。家康は、増田を助けることで恩を売ります。芝居とはこういうことです。増田に恩を売った家康は、事件後の領地宛がいで、奉行である増田の協力を得ることができます(後述参照)。
 ちなみに、蜂須賀、黒田とともに、毛利秀元、宇喜多秀家も朝鮮慶長の役で、軍目付より批判されていますが、秀吉よりおとがめなしでした。毛利や宇喜多は、立場的には、奉行を追い落とす立場ではありませんが、当時の目付の報告に誤りがある、との立場をとり、そして、福原ら目付と近い三成の処分に至ったということかと思われます。
 なお、七将に処分はなく、両成敗となりませんでした。武装して徒党を組むという重大な違反行為がおとがめなし、でした。つまり、七将の言い分が正しく(朝鮮の陣の報告に問題がある)、違反行為は免責されたということです。

(細川忠興がキーマン?)
 七将の中心人物は、のちに石田三成ら奉行に、細川忠興と指摘されています。細川忠興は、嫡男忠正の嫁が前田利長の娘で、宇喜多秀家夫人の豪姫と姉妹でした。家康との事件対応協議で、利長、宇喜多が外されていたということであれば、家康ー細川ー前田ー宇喜多で、事件対応について連絡がなされていたことが推測されます。つまり、細川は、前田らに事件について、七将や家康に都合が良いように説明し(朝鮮の陣の論功報告や扱いに誤りがあったと)、「関わらないほうがよい、そうでなければ、七将から恨みを買う」といった具合です。
 細川は、関白豊臣秀次失脚時に、秀次家老の前野景定(但馬出石11万石)に娘を嫁がしており、前野ともども連座し、処罰されかねませんでした。また、秀次に借金をしていたことも問題視され、その後冷遇されました。家康はこのとき、細川の金策に協力したとされます。細川家は、1582年、本能寺の変直後、明智光秀に味方した一色家領地である北丹後を領地に加えますが、その後、秀吉政権下で領地の加増はありませんでした。忠興自身は、これらの自身の待遇について、奉行の報告が影響があるとして、彼らを恨んでいたのかもしれません。
 家康は、秀吉死後、伏見在住の細川家をたびたび訪ねており、関係を強化していたとみられます。忠興の父藤孝は、主君の足利義昭からいち早く離れ、織田信長に近づきました。また、与力親である明智光秀の謀反には加担せず、羽柴秀吉に与しました。次の時代の権力者に与するのに長けていると言えます。忠興も、利家亡き後は、家康につくのがよいと早々に決断したものと思われます。

(家康の伏見城入城と三成派への処罰)
 事件調停の結果、家康の権勢が高まります。もともと前田利家に近かった武将(加藤清正、浅野幸長、細川忠興)が、事件をきっかけに、家康と関係を深めたこと、五奉行の権威が失墜したこと、が挙げられます。
 閏3月13日、家康は、住まいを伏見城外の屋敷から、伏見城西の丸に移します。伏見城は、秀吉晩年の居城であり、家康の権力の上昇を表したものでした。石田三成のいなくなった四奉行でこれに反対するものはいませんでした。結果から推察すると、七将事件は、家康のクーデターだったのかもしれません。家康の保証がなければ、七将は、武装徒党は危うくてできなかったのではないでしょうか。
 同19日、五大老は、蜂須賀、黒田らが慶長の役で受けた処分を取り消す文書を出します。また、同日、軍目付であった福原と熊谷直盛(豊後安岐1万5千石)は厳封、改易となりました。
 同21日、家康は、毛利輝元と誓紙を交わします。書面の内容は、輝元が「家康を父兄とする」と書かれており、輝元の家康へのへつらいが示されたものでした。
 前田利家の死去、石田三成の失脚により、家康の権威はますます大きくなっていきます。伊達、福島、蜂須賀との婚姻は行われ、新たに黒田長政、加藤清正との婚姻が進められました(つづく)。
 
 


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