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どうする信長、毛利をどうする?(大河ドラマ連動エッセイ)

 大河ドラマ「どうする家康」に連動して、織田信長のどうする?「どうする信長」を書いてみました。ドラマでは1575(天正3)年12月の水野信元粛清事件が描かれていました。水野の粛清は、武田勝頼方に内通した疑いでした。水野の領地(愛知県東部)は織田重臣の佐久間信盛のものになりました。
 その翌年である1576年2月、1573年に京都を追放され、紀伊にいた将軍足利義昭が紀伊から、中国の毛利輝元領の備後(広島県東部)の鞆へ移ります。毛利とすれば、迷惑ですが、結局、同年4月、義昭の足利政権再興の「指示」を受け、織田と対決することを決断します。今回のどうする信長は、この対毛利を担当者をどうする?です。

 信長と毛利はこれまで、同盟関係でしたが、1575年9月に信長が支援していた浦上宗景が備前(岡山県東部)の居城である天神山城を、毛利方の宇喜多直家に攻め落とされると、織田方と毛利方との緊張が一気に高まりました。同時期、信長は、毛利によって領地を失った尼子氏(もともと山陰地方を支配していた)の残党と接触を図っており、毛利側の疑念を生んでいました。
 毛利が信長との対決を決めた1576年4月、信長と大坂の石山本願寺(一向一揆)との和睦が破れ、戦闘が再開されます。大和や河内を任されていた原田直政が戦死すると、信長は、佐久間信盛を本願寺攻めの担当として、厳重に包囲戦を行います。他方、5月中旬には、越中(富山県)で、対立していた上杉謙信と一向一揆勢力が和睦を結びます。これによって、将軍義昭の働きかけで、毛利、本願寺、上杉の反信長網が出来上がりました。
 信長軍は石山本願寺を包囲し続けていますが、これに対して、毛利の水軍が同7月、兵糧を本願寺に入れようとして、木津川河口で、水上戦闘となりました。結果は毛利側の勝利で、兵糧が本願寺に届けられます。

(このとき、紀伊の雑賀衆が毛利水軍に合力しており、信長は翌1577年2月、紀州攻めを行い、雑賀衆は信長に降伏します(ただし、この後も反信長で挙兵する))。 

 この1576年ですが、7月に、上で書いたとおり、木津川河口で合戦が生じますが、この後は、大きな戦闘はありませんでした。信長は、安土に長く滞在し、城や城下町の建設に関心を集中していたのでしょう。

 さて、対毛利の最前線は、備前の国となっていました。信長方の浦上宗景と毛利方の宇喜多直家が争う形でした。1575年9月、浦上は居城の天神山城を失いました。備前の隣国の播磨の動揺を恐れた信長は、越前在陣中の摂津の荒木村重に播磨(兵庫県)入りを命じました。村重の播磨入りで播磨の国衆である別所長治、小寺政職が信長に従います。1576年11月、別所、小寺、浦上らは、信長に拝謁しています。
 1577年4月、毛利輝元と宇喜多直家は、播磨の室津(たつの市)に着陣。翌5月、配下の乃美宗勝が播磨の英賀(姫路市)に出兵しますが、小寺政職の軍に敗れます。毛利の軍が播磨まで直接攻めてきたことは信長にとって衝撃でした。当初、対宇喜多を浦上宗景に任せ、これを荒木村重に支援させる態勢でしたが、浦上は勢力挽回ならず、頼りになりません。そして播磨が戦場になり始めました。さあ、今回のどうする信長ですが、対毛利の大将を誰にする?です。
 
 このとき、信長の重臣は、柴田勝家が北陸方面で対上杉謙信を担当、明智光秀が大和や山城を担当しつつ、丹波を攻略中。大坂石山本願寺は、佐久間信盛が包囲戦を強いていました。その中で羽柴秀吉は近江三郡、滝川一益は伊勢四郡を支配していましたが、ともに特段の担当はありませんでした。秀吉はもともと、毛利との外交(取次)を担当していました。1573年には、堺で、将軍義昭の処遇をめぐり、毛利の外交僧である安国寺恵瓊と面談、交渉の経験もありました。秀吉は有力な候補者です。もう一人の候補者は、やはり摂津の荒木村重です。上に書いたとおり、播磨の国衆や浦上宗景支援を担当していました。
 
 信長の回答は、秀吉でした。1577年9月、信長は美作の国衆に、まもなく秀吉を派遣すると伝えています。秀吉の播磨入りは翌10月でした。対毛利の大将は、なぜ村重ではなく、秀吉だったのでしょうか?
 秀吉は毛利外交をかつて担当しており、戦うだけでなく、交渉や講和もできると見込んでいたのでしょう。他方、村重のこうした能力は不明です。
 浦上宗景の能力は低く、播磨の国衆の人気は高くありませんでした。対宇喜多、毛利で、浦上を担ぐのを信長はやめることにしました。浦上支援を行っていた村重では具合が悪くなったということが考えられます。毛利本軍はともかく、対宇喜多は秀吉が直接当たることにした、ということが考えられます。つまり、対外方針の変更が背景にあったといえます。「(対宇喜多)浦上ー播磨国衆(荒木担当)」方針から「(対毛利・宇喜多)秀吉(織田本軍支援あり)ー播磨国衆(秀吉担当)」方針となったといえます。もちろん、「村重が外様であった」ことや、「村重の領地は摂津一国で秀吉より大きかったことから、家臣間のバランスをとる」、「村重は、本願寺の北側包囲も担当していた」、などの理由も考えられます。

 こうした対外方針の変更は、のちの四国政策でも現れ、明智光秀の謀反につながると言われるのですが、対毛利の方針変更は、荒木村重にとっては面白くありません。村重は、本願寺包囲にも、摂津(北)方面で加わっていますが、1576年5月以降、本願寺包囲は陸上戦闘が行われず(!)、手柄のたてようがありません。その後、村重は信長に対し、謀反を起こすのですが、
毛利担当を外されたことが一因との分析が歴史学者の間でされています。

 秀吉は1577年10月、播磨入りし、国衆を従え、北の但馬も平定します。西播磨で宇喜多勢と戦い、勝利します。翌1578年3月、東播磨の別所長治が謀反をし、秀吉は窮地に陥りますが、なんとここで秀吉は、宇喜多への調略を行います。1578年4月、毛利軍は播磨の上月城を攻め、宇喜多もこれに従軍しますが、直家が病気になったとして、離脱します。1579年6月には、直家は織田方に寝返りました。信長は、宇喜多を過去の経緯から(信長側から背き、信長支援の浦上に勝利した)許しませんが、秀吉が粘り強く説得して、宇喜多の投降を許します。
 敵の領地は、敵を駆逐した後は、直轄領や一族領にしたり、味方への褒美に与えることが期待されます。それを期待しているのは武将から足軽大将まで皆同じです。それが領土安堵となると、味方の士気や忠誠心が揺らぎます。ただ、このときは、既に別所長治が謀反していたため、これを滅ぼせば、領地宛がいができるということも考えられました。別所の謀反は、秀吉の失点でしたが、兵糧攻めを行い、1580年1月、別所は降伏します。

 実は、別所攻めは、実は秀吉の手柄というよりは、信長の軍略方針に基づいて行われました。1578年3月、別所が謀反した際、秀吉は、別所の居城の三木城(兵庫県三木市)を囲みますが、別所の兵は5千ほど、秀吉は8~9千ほどとみられます。城攻めには守りの3倍の兵が必要と言われますので、秀吉の兵は少なすぎて攻撃ができません。別所方の支城が周囲に複数あったことから、秀吉は、まず、支城の野口城(加古川市)を落とします。
 しかし、同4月、織田方の西播磨の上月城(佐用町、尼子残党が守る)が毛利に攻められます。秀吉と荒木村重が援軍に向かいますが、毛利の大軍の前に手が出ず、むなしく対陣を二か月続けます。

 ここで信長は、嫡男信忠を始めとする約2万の援軍を播磨に送ります。信長自身も出陣する予定で安土から京都まで来ましたが、その後、出陣はしませんでした。秀吉は、今後の対応の指示を仰ぐため、京都の信長に会いに行きます。信長の答えは、「上月城支援の軍を退却させ、織田本軍とともに、三木城の支城攻めに加わる」でした。上月城は見捨てられた形となり、7月、城主の尼子氏は自害しました。戦前の教科書に出ていた家臣の山中鹿之助は捕らわれ、殺害されます。
 織田本軍は同7月、別所方の神吉城、そして志方城(ともに加古川市)を落とし、引き揚げます。後は秀吉に託されました。秀吉軍の兵力は上に書いたとおり、それほど多くないので、城の力攻めはできないので、別所の居城である三木城を兵糧攻めすることにしました。幸い、周りの別所方は、織田本軍が滅ぼしてくれていました。毛利軍が来ない限り、挟み撃ちの心配はありません。毛利軍が来れば、織田本軍に支援を求めることになります。別所は、秀吉単独であれば、兵力差が大きくないので、10月、秀吉本陣に攻撃を仕掛けますが、大敗します。1579年9月、毛利が補給部隊を派遣します。別所方は城から出て、補給を実施しようとしますが、秀吉軍に敗れ、補給も失敗します。陸路では、備前の宇喜多が織田方に寝返ったことから、毛利が備前を越えて、播磨に入ってくることが困難になります。1980年1月、別所方は降伏、開城しました。播磨の国衆は、別所方に就いたものも多く、また、摂津の荒木村重の謀反には小寺政職が呼応しました(その後没落)。結果として、多くの国衆が滅んだことになります。同時期、備前の宇喜多直家は、美作(岡山県)の毛利方との戦いを一手に引き受けています。直家は1582年1月に死亡しますが、子の秀家が跡を継ぎます。

 秀吉は、1581年10月、毛利方の鳥取攻めを行い、因幡と伯耆東部(ともに鳥取県)を支配下に置いた後、1582年4月、備中(岡山県)へ進出します。秀吉は、高松城の周囲に堤防を築き、足守川の水を引き入れるという、いわゆる水攻めを行い、救援に来た毛利本軍と対峙状態となります。そして、信長に出馬を促します。いよいよ織田と毛利の決戦まじかとなりました。

 信長の戦略を振り前ります。信長は当初、秀吉が播磨の国衆とともに、備前の宇喜多を滅ぼし、備中で毛利と織田本軍が対決する、というシナリオを描いていたと思われます。結果は、秀吉が宇喜多勢とともに、播磨の兵力を率いて備中に入りました。播磨の国衆の中心的人物は、小寺政職の元重臣である黒田孝高となりました。この過程で、信長は別所長治、小寺政職、荒木村重を謀反で失いました。信長にとって、毛利攻めは予想外の謀反につながり、紆余曲折でしたが、備中でついに毛利との決戦まじかという状況に至りました。
 信長は、毛利攻めの方針で、浦上宗景を用いることをあきらめましたが、このことは浦上と激しい戦いを行っていた宇喜多直家が、織田に投降する環境を整えました。ただ、信長は、宇喜多の投降を許した後も、宇喜多への非難を続けていたようです。隙あれば、宇喜多の領地を召し上げてしまおうと考えていたかもしれません。そうするうちに、宇喜多の内応の効果、毛利の攻撃の盾となっている効果が理解されたのでしょう。1582年1月、直家が死ぬと、信長は10歳の子秀家の相続をそのまま許しました。
 他方、本来なら因幡や備中攻めに加わるべき別所、小寺が謀反したことによって、秀吉軍の武将格が秀吉直系のものばかりになりました。このことは、秀吉の軍事行動がスムーズになることや、秀吉の直系家臣の昇進につながったといえます。
 4年間にわたる時間の中で、味方と敵が入れ替わって、でも、最終的には備中における毛利本軍との対決という目的にたどり着いている。秀吉を毛利攻めの大将にした信長の選択に、歴史の奇妙さを感じざるを得ません。

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