相談しようか、と父は言ったが、選択肢は無いようだった。

父の母は、大変厳しい人であった。

わたしからみても、優しいおばあちゃんというよりも

ちゃんとした「怖い大人」の一人であった。

曲がったことが大嫌いで、夫(おじいちゃん)に口を出し、手を出されるなんてこともあったらしい。

父はわたしに「おばあちゃん、おじいちゃんには自慢していいよ。旅ちゃんの自慢が二人はとても嬉しいんだ。」と言ったけど

わたしはこのことが今でも不思議であった。

わたしの自慢がおじいちゃん、おばあちゃんにどう作用しうるのか。

今でも分からない。

わたしの喜びは、わたしのもので、誰にも奪えないかわりに、

誰にも、分けられないと思ったけど、

DNAをわけることの特異性をわたしが今一理解してないからだろうと思う。


ひとは年をとると、老いる。もう、それは絶対に。

赤ん坊と老人は神様に一番近い場所にいるような気がしている。

あの怖い大人だったおばあちゃんが、自力では生活ができなくなった。

彼女は安楽死、自然死を望んでいた。

遺書のようなものが、仏壇から出てきたのだった。

今まで健康で楽しく生きてこられたのは、子供たちのおかげだということと、

「自分で飲み食いができなくなったなら、手術などは望まない」

とはっきり記載していた。

わたしは永遠に彼女の孫だが、立派な大人の女になっていて、

父はその手紙を見せ、

「手術をね、しないと死んでしまうんだ」とわたしに言った。

彼女は時々、わたしたちの名前を忘れてしまうようになっていた。

母は「手術するんだから、旅ちゃんに相談もなにもないでしょ。」

と言った。

わたしは、彼女が一人の人間として、自由に生きてほしいと思った。

生きていてくれたら、それだけで人生は素晴らしいか?

違う。自由が素晴らしいんだ。尊いんだ。


たぶんこれは分からない人には何をどう丁寧に説明しても分からない類いの話なんだろうけど、

わたしは彼女のしたいことを、したいようにしてあげたい。

だけどそこには、やっぱり対話が必要だったんじゃないか。

紙に文字で一方的にこうしたい。わたしの人生だから。というのが間違っているとは思わないけれど、

日本の医療では本人の意志より家族の意志が優先されてしまうから、

家族の負担になることを遠慮してるんじゃないか、とか

仏壇に入れておくとはどういう意味なのか、とか

そのときその瞬間はそう思ったけど今は違うんじゃないか、とか

その考えが、どのように導かれたのか「意味」を知ることが、

決断し、行動する人間にはとても大切なことだから。


わたしたちは物語を生きている。

しかし物語の終焉を、綴るのは必ずしも自分ではない。


そしてわたしは彼女を、自由にさせてあげられなかった。

祖母不幸の孫でした。

ごめんなさい。おばあちゃん。


もしもわたしが家族を持つなら、

それはきっと、、、わたしと会話が成立して、

治療方針を任せられるという条件が必要だと思った。

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