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【短編小説】はじめてのおくりもの(1/6)

 ねっとりとした熱気が、ボクを包んでいた。
 風もなく、灼熱のアスファルトから立ち上がってくる不快な上昇気流を、やむなく吸い込むことしかできなかった。
 なんていうか、こめかみの辺りをガツンと殴られたみたいな、そんな暑さだった。
 やれやれ。
 ボクは照れ隠しみたいに、少し俯いて首を左右に振ってみた。ちょっとしたアピールみたいなもんだよ。別に、誰に見られてるわけでもないのにね。
 まいったな。
 一文字ずつ固い石に刻み込むみたいに、ボクは頭の中でつぶやいた。実際、まいってたんだよ。

 ボクはいったい、どこにいるんだろう?

 周りを見渡してみたけど、別に面白い風景ってわけでもなかった。ありふれた、住宅街だ。建売っぽい住宅。郵便局。病院。センターラインのない車道と路側帯の白線が引かれただけの歩道。見覚えなんて、ない。
 こういう時、キミならどうする?
 つまり、ふと気が付いたら全然知らない場所にいたりした時さ。
 ボクはこんな時、少しも慌てたりしないんだ。
 ただちょっと、慣れる時間が必要だけどね。
 この現実に、慣れる時間が。
 そんなとき、ついつい心の中でいっちゃうんだ。
 やれやれ、って。
 口癖みたいなもんだよね。まあ実際には口には出さないんだから、口癖なんていわないのかもしれないけどさ。
 ボクはあんまり細かいことにはこだわらないんだ。
 そういうのを、カッコイイと思うんだよ。
 こだわらない男。
 なんかカッコイイと思わない?
 ボクはカッコよくありたいと願ってる。カッコイイことには気を遣ってるんだ。
 こだわらないっていう割りには、カッコイイことにこだわってるよね、って誰かいってなかったっけな。冴えてるよね。そういう冴えた言葉に、ボクは弱いんだ。誰がいったんだっけ? たぶん、栞だよ。キミは知らないかな? ボクの妹の栞。あいつはボクより二つも年下なのに、すっごく冴えてるんだ。
 お兄ちゃんの人生の節目には、いつも私がいてあげるからね。だって私、お兄ちゃんの人生の栞なんだから。
 とびきりの笑顔で、そんな冴えたこといってくれるんだ。
 とてもいい子なんだ。キミもきっと気に入るよ。
 そういえば。
 不意に、思い出した。
何か、大事なことがあったんじゃないかな。
 急にボクは、ソワソワし始めた。
 こういう時、ボクはどうにもソワソワしちゃうんだ。
 何かある、ってことは知ってるのに、それが何なのかはイマイチわからない。
 キミにはそういうの、ないかな?
 なんかね、肋骨の内側で内臓だけが無重力状態になっちゃった気分になるんだよ。
 あんまりいい気分じゃないね。
 ていうか、最悪だ。
 このソワソワをなくす方法は二つしかないんだよ。
 何かある、その何かを探り当てるか、なかったことにするか、だ。
 そんなとき、ボクは大抵なかったことにしちゃうんだ。
 ボクにとってそれは、そんなに難しいことじゃないからね。
 でも、ボクは思ったんだ。
 ちょっと待てよ。
 栞のことを考えてたんだよな?
 考えを逆戻りさせてみる。
 きっと、栞に関係あることなんだ。
 そしたら、ピンときたよ。
 今日は栞の誕生日だった。
 その瞬間、ボクの気分は最悪から最高に変わったよ。
 こういう気分、なんていうんだっけ? そう。ハッピーだ。とてもハッピー。
 いい言葉だよね。ハッピー。
 そうだ。ボクは栞に会いに行くところだったんだ。
 ようやくわかった。ますますハッピーな気分になる。
 ここがどこなのかなんて、どうだっていい。
 大事なのは、どこに向かうかだ。
 現在地ではなく、目的地。
 目的地さえあれば、ボクは進んでいける。
 元気が出てきた。
 お腹の底のほうからエネルギーが湧いてくる感じ。
 どこまでだって、ずんずん歩いていけそうだ。
 こういう気分になること、キミはないかい? ボクはけっこうあるんだよ。特に、ハッピーな気分になった時なんかにね。
 さっそく、ずんずん歩いていこうと思ったんだけど、まだ少し、何かが引っかかってた。
 そうだよ。手ぶらじゃダメじゃないか。
 ボクは改めて、自分の格好を見下ろしてみた。
 くたびれてはいるけど、それなりに手入れされた茶色い革靴。さらりとした肌触りのこげ茶色のチノパン。Tシャツなんかじゃなくて、ちゃんと襟のついた空色の半袖のシャツ。うん。けっこうパリッとした格好してるじゃないか。結婚式みたいなセレモニーには出られないかもしれないけど、ヨソイキっていったっておかしくないよ。きっと。
 でも、おかしいのは、なぜかお財布を首から紐でぶら下げてるってことなんだ。シャツが比較的ゆったりしてるから、まさかお腹の前でお財布がブラブラしてるなんて、ボクとすれ違う人が気付いたりはしないはずなんだけど、ちょっとこれってカッコイイとはいえないんじゃないかな。まるで、育ちすぎた赤ちゃんみたいでさ。どうしてこんなことしてんだろ?
 でも、まあいいか。
 ちなみに、これもボクの口癖みたいなんだ。
 まあいいか。
 ボクはこだわらない男なんだよね。
 カッコイイこと以外には、ってことだけどね。
 あれ? このこと、もういったっけ?
 まあいいか。
 とにかく、ウチに帰らなきゃ。
 そのためには、電車に乗らないと。
 見渡してみる。
 ありふれた、街並み。
 見たことあるような、ないような。
 キョロキョロしているボクを見かねたのか、人のよさそうなオバサンが声をかけてきた。
「どうかされましたか?」
 オバサンは、優しい笑顔を浮かべていた。
 ボクは、なんていうんだろ、こういう人からの善意っていうのがちょっと苦手なんだ。
 この人も、ボクなんかに向かって、やたら丁寧な言葉遣いをしてくるし。
 バカにしてるのかな? なんて気分になっちゃうんだ。
 きっとボクがひねくれてるってことなんだろうね。
 ボクがそうやってモタモタしていたから、オバサンのにっこり笑顔は少しずつ曇ってきちゃった。
 ボクに話しかけたのを後悔してるのかもしれない。
 ああ、ゴメンナサイ。
 人の親切は苦手なんだけど、親切にしてくれる人に嫌な思いをさせるのはもっと苦手なんだ。
 心の中で謝りながら、ボクは慌てて口を開いた。
「駅を、探してるんです」
 ボクがそういうと、オバサンはホッとしたように微笑んだ。受け容れられない善意ほどみっともないものはない。せっかく差し伸べた手が冷たく振り払われる感じ。こうして他人の優しさを受容することも、ボクの優しさだと思うんだ。違うかな? あとで栞に聞いてみよう。
「地下鉄の駅なら、ここから5分くらいですよ」
 そういいながら、オバサンは必要以上の身振り手振りを交えながら、駅への道のりを丁寧に教えてくれた。
 ボクは深く頭を下げてお礼をいったよ。大丈夫。ボクって頭は悪いけど、最低限の礼儀はわきまえてるんだ。
 オバサンは自分の善意が報われて満足そうに微笑んでたんだけど、ボクが背中を向けて歩き出すと急に、ビックリしたように声を裏返らせたんだ。
「ワンちゃん、お忘れよ!」
 何のことかわからずに振り向いたボクの視界の端で、何やらモジャモジャしたものが蠢いた。
 足元に、何か、いる?
 ゆっくり下降させたボクの視線は、やがてそいつの視線とかち合った。

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