【短編小説】空気に何が書いてある(6/10)
「……ただいま」
その日の息子の声は沈んでいた。
女は、そんな息子の不調を、手作りのパンケーキを二口しか食べようとしなかったことで、ようやく気付いた。パンケーキといっても、市販のホットケーキの素を薄めて焼いたものでしかなかったが。
「どうしたの? おなか痛いの?」
「ねえ、ママ……」
息子は、眉間に皺を寄せながら女に向かってつぶやいた。
「空気には、何か書いてあるの?」
「空気?」
「ボクね、空気を読めないんだって。空気って、何が書いてあるの? 誰でも読めるの?」
やれやれ。
女は、人生においてこの上なく大事なことを示唆するべく、息子に向かって諭した。
「空気に文字が書いてあるわけじゃないの。でも、周囲の雰囲気を感じ取って、自分の取るべき行動を理解するっていうのは、大事なことなの。いい? 空気は読まなきゃダメなのよ」
息子は俯いていた。
そして、一言も発することはなかった。
女は満足を噛み締めていた。母として完璧な仕事を成し遂げた。その満足感は、必死に涙をこらえる息子の姿をかき消してしまっていた。
グワグワグワ。
窓の外でカラスが騒いでいる。
特に理由もなく、女はベランダに出て、外を見下ろした。
7階のベランダから見下ろす女の視界に、わずかに4階のベランダから餌を撒く老婆の姿が見えた。
カラスとハトとスズメが駐車場に群がっていた。そのうち何羽かは、3階以下のベランダにまで侵入していた。
沸々と怒りが渦巻いた。
母としての充実感を噛み締めるべき大切な時間を、カラスの鳴き声で穢されたことに。
許せない。
女は思い切り眼下の老婆を睨んだ。
絶対に許せない。
義母の存在や、築三十年のマンションや、役に立たない旦那や、一向に増えていかない貯金通帳など、頭の中にあるネガティブな思いのすべてが老婆に向いたかのようだった。
皆殺し。
女の脳裏でそんな言葉が閃いた。
鬱陶しいものすべて、消えてしまえばいい。
私の視界の中から、綺麗サッパリ。
女は決意した。
だからすぐに買い物に向かった。
ドラッグストアへ。
殺鼠剤を買いに。
これがカラスやハトに効くものなのかはわからない。
けど、こうすることが必要なのだ。
女はそう思っていた。
周りのママ友も言っている。
私は空気を読んでいるのだ。
ハトやカラスが何を食べるのかよくわからなかったが、家にあるお米に液体の殺鼠剤をまぶし、駐車場にばら撒いた。
これで、訪れるのだ。
私の、平穏が。
その日の夜は、不思議なほどぐっすりと眠ることができた。
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