【短編小説】空気に何が書いてある(1/10)
女はうんざりしていた。
何にうんざりしていたのかはわからない。
もしかしたら、何もかもにうんざりしていたのかもしれない。
目に映るもの、すべて。
例えば、このヤニに黄ばんだ趣味の悪い壁紙。例えば、この百円均一丸出しの食器類。例えば、この八割がた枯れている幸せを呼ぶ木。例えば、この新聞屋からもらったセンスのない壁掛けカレンダー。
そして何よりも、この築三十年のマンション。
女は、やけに質量の大きなため息を、その歯並びの悪い口から吐き出した。
このマンションは、義母のものだった。
その事実が、何よりも女をうんざりさせていた。
女は、同時に妻であり、母でもあった。結婚当初はアパートを借りて住んでいたが、子どもが産まれるのと前後して、夫の母親が介護を必要とする状態になってしまった。子どもの世話をしながら義母の介護までするのかと思うと気が滅入ったが、家賃もいらないし、マイホーム資金を貯めようという夫の意見にまんまと乗ってしまった。もちろん、夫にはいえない下心だってあった。どうせ、義母ももう長くないだろう。そしたら、義母の介護をしていたことを盾に取り、このマンションを相続させてもらおう。何もここに住みたいわけではないが、売ったお金を頭金にして建売住宅でも新築マンションでも買ってしまえばいい。
女はダイニングの椅子から立ち上がり、もう一度室内をぐるりと見渡した。全体的に、色調がくすんでいる。またしても、ため息が口からこぼれ落ちる。華やかさの欠片もない。もし自分の家を持ったら、もっともっと華やかに彩ろう。観葉植物や花を飾り、幸せいっぱいの家族写真を並べ、壁にはきれいな風景画を掛けてもいい。とにかくこんな、地味で薄汚い部屋はお断りだ。
女は汚いものから目を背けるように、ベランダのほうに歩を進め、外の景色を眺めた。
だけど。
と、女は思った。
だけど、オンボロマンションの7階から望む、この景色だけはなかなかのものだった。
遮る物なく視界に広がる、緑あふれる公園都市。
ほどよく都会で、ほどよく田舎。
夜景が美しいとはいえないが、緑の多いこの景色は見ていて爽快だった。
その時、視界のはるか下のほうで、野太く濁った鳴き声がいくつも響いた。
グワ、グワといっている気がする。
またか。
女は大きく舌打ちした。
しかし次の瞬間、ふすま一枚を隔てた隣の和室で寝ている義母に聞かれたかと思い、ごまかすようにテレビを点けた。
義母は、腰を悪くしていたが頭はマトモだった。
それも、計算外だと思っていた。
義母は女のやることなすことに文句をいうのだ。
それが自力でトイレにも行くことができなくなった義母のストレスから来るものだと頭ではわかっているのだが、実際これだけ世話をしているのに来る日も来る日も愚痴やら嫌味やら説教やらを垂れ流されるのは、控え目に表現してもクソムカつくものだった。
それほど大きくもないテレビの液晶画面に、ドラマの再放送が映し出される。好きでも嫌いでもないドラマのシーンを、何の感慨もなく眺める。その間も、グワグワという濁った鳴き声は響き続けていた。
その鳴き声を聞いて、ダイニングテーブルの上に置きっぱなしになっていた回覧板のことを思い出した。
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