見出し画像

【短編小説】空気に何が書いてある(8/10)

 翌日の目覚めはさらに爽やかだった。

 人生最高の朝だったかもしれない。

 自分のなしたことの結果が待ちきれない。

 夫はすでに出勤していた。息子と義母はまだ寝ているようだ。手早く着替え、女はメイクもしないままで外へ出た。

 ポンプ室と表示された素っ気ないコンクリ造りの立方体の建屋。4階の老婆はここでネコに餌やりをしている。女は昨夜、ここに殺鼠剤を入れたウインナーを置いた。

 そして今、女の足元には、親子かもしれない黒いネコの死体が二体横たわっていた。

 やった。

 達成感。充足感。まるで仕掛けた罠が見事に成功したハンターのような気分。

 その時、女は閃いた。この感覚をより深く味わう方法を。

 わずかな抵抗感を覚えながらも、大小二つのネコの死体を手に取り、女はマンションの4階に上がった。

 4階の端から二番目の家。一人暮らしの老婆の家のドアの前。そこにネコの死体を置いた。

 そして玄関のチャイムを押し、すぐにエレベーターホールに身を隠した。

 2分以上経ち、女が諦めかけた頃、塗装が剥げ、錆の浮いた玄関のドアがゆっくりと開いた。

 すぐに、小さく低く、老婆のすすり泣く声が聞こえてきた。そのまま細い腕がネコの死体を一体ずつドアの内側に引き込み、ゆっくりとドアが閉められた。

 女は、わずかに舌打ちを漏らした。もっと泣き叫び、取り乱すような老婆の姿が見られると思ったのに。

 でもまあ、それが目的でネコの死体を運んできたわけではない。目的は、老婆に知らしめることだ。

 空気を読め。

 それこそが、社会を生きる上で何よりも大事なことなのだ。

 それを伝えるためのメッセージ。

 やり遂げた。完璧だ。自分の仕事に満足した女は、軽やかな足取りで自分の家へと戻った。

 これで、平穏が訪れる。

 カラスの騒音にも、ネコの糞にも悩まされない日々が。

 それを為したのは自分だ。

 女の誇らしい自尊心は、しかし、その日の夕方にポッキリと折られた。

 グワグワグワ。

 すでに聞き慣れた、カラスの鳴き声。

 ベランダから外を見ると、4階の老婆が鳥の餌を撒いていた。

 どうして!

 思わずベランダの手すりから身を乗り出す。

 わざわざ死体を運んでまで知らしめたのに、わからなかったのか?

 あれほど明確に示したのに。

 空気を。

 手すりを掴む手に力が入る。指先が白くなるほど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?