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【短編小説】空気に何が書いてある(2/10)

 餌やり禁止!

 毒々しいほどに赤い太字のゴシック体で、A4のプリントにはそう印字されていた。

 最近、このマンションでハトやネコに餌やりをする住人がいて問題になっているようだった。

 ネコはマンション敷地内の植栽を荒らし、子ネコを産み、住民が飼っている小鳥に襲い掛かったりもしていた。ハトは駐車してある車の上に糞を撒き散らし、やがてカラスも集まり始め、ゴミ収集の日に可燃ゴミを漁りだした。マンション全体に悪臭と無秩序感が漂いだし、著しく住環境が悪化していると回覧板は主張していた。

 そんなの、今に始まったことじゃないじゃない。

 女は口に出さずにそう悪態をついた。

 築三十年のマンションは、劣化する。

 それはコンクリートのひび割れだったり、排水設備の故障だったり、どこかの部屋で起こる雨漏りのことだけを指すのではない。

 劣化するのは、そこに住まう人間の質だった。

 たまに不動産屋のチラシで目にするこのマンションの価格はそこらの新車の値段よりも安くなり、住んでいるのはいつの間にか高齢者と母子家庭と外国人ばかりになっていた。

 そこに群れ集う、野良ネコとカラスたち。

 いつまでこんなところにいなければならないのか。

 女は、肺が真空になりそうなほど巨大なため息を吐き出した。

 ウォークインクローゼットとシューズクロークのある新居。

 それは女の夢だった。

 いくらこのマンションの売値が安かったとしても、今こうして家賃もなく暮らせるのは、ローンの頭金を貯めるためにもありがたいことなのだった。

 それが、介護の必要な義母と野良ネコとカラスがいる生活なのだとしても。

 その時、玄関のチャイムの音が鳴った。インターフォンなどないが、誰が鳴らしたのかはすぐわかった。もうそんな時間か、と驚いた。

「ただいまぁ」

 女が玄関のカギを開けるや否や、明るい声が響き渡った。

「おかえり」

 息子は六歳だった。学校では運動も勉強もよくでき、何よりも親のいうことをよく聞く子だった。女にとっては、自慢の息子だった。

 女にとって、大事なのはこの息子のことだけだった。

 ほかのことなど、女にとってはどうだってよかった。

 旦那のことなど、殊更にどうだっていい。あんなのは単に、毎月25日に給料明細を運んでくるだけのマシーンのようなものだった。

「ママ、おやつー」

「はいはい」

 ダイニングのテーブルに冷蔵庫から出した手作りプリンを置く。手作りといっても、プリンの素を牛乳で溶かして冷やしただけのものだ。それでも女は、手作りのおやつを子どものために作っておく自分をいい母親だと自画自賛していた。

「先に手を洗うのよ」

 はーいという返事とともに、息子は素直に手を洗いに行く。

 我が家の教育は行き届いている。

 女は満足そうに微笑んだ。

 帰宅する息子は和室で寝ている祖母にあいさつしようともしないが、そもそも女の中にそういう配慮は欠片ほども存在していなかった。

 女にとって義母は、苦情と文句だけを延々とリピートする壊れたテープレコーダーのようなものだった。

 敬意の対象になどなるわけがない。

 そうした思考回路は、当然息子にも引き継がれていく。

 子どもを育てるのは学校や社会ではなく、完全に親の仕事であるはずだった。

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