【短編小説】キミの足音はもう聴こえない(1/4)

 ボクはその音が好きだった。
 カン、カン、カン!
 澄み切った金属音。短いピッチで、力強く、躍動感に満ちている。
 感じるのだ。
 ポジティブなエネルギーの凝縮を。
 それはボクに欠けていて、かつ、必要なものだった。
 カン、カカンッ!
 スタッカートのように歯切れのよい音のあと、一拍おいて玄関のドアが叩かれる。
 コン、コン……。
 先ほどの音とは対照的に、控えめで遠慮気味な音。オンボロアパートの部屋の木造ドアをノックする音だ。
 これはこれで嫌いではない。
 なんというか、ヒトミらしい。
ボクは安っぽい鍵をひねり、薄い木造の玄関ドアを開ける。
「わっ」
 いきなりドアを開けたボクに、ヒトミは目を丸くした。
「ビックリした。コウくん、私が来るのドアの後ろで待ってたの?」
「まあね」
 足音でヒトミとわかったんだ、とは打ち明けない。
 なんだかそれは、気恥ずかしい。
 とはいえ、ずっと息を殺してドアの後ろでヒトミを待ってる姿もなかなか気持ち悪いものだと思うが、ヒトミはむしろうれしそうに微笑んだ。
「すぐご飯作るね」
 ヒトミは、いつものように手に袋をぶら下げていた。中には食材が入っているはずだ。これを持って、ヒトミは階段を駆け上がってくるのだ。いつものように。
 それを思うと、胸の中心がじんわりと温かくなる。
 愛されているという、感覚。
 受け容れられているという、安心感。
 ヒトミに向かって感謝の言葉をかけたくなるが、臆面もなく愛の言葉を囁くには、ボクの恋愛経験は不足しすぎていた。
 照れ隠しのように、キッチンでキャベツを刻み始めたヒトミの背後に立ち、手を回してその小ぶりな胸を揉んだ。
「ちょっと、何してるの?」
「んー、前戯」
 呆れながら、ヒトミは身をよじった。
「手元が狂うと、下のソーセージちょん切っちゃうよ」
 思わず股間を手で覆いながら、ボクは離れてヒトミを眺めた。
 肩にギリギリ届かないくらいの長さで揃えられた艶のある黒髪。小さな輪郭。少し小さめで、目尻の下がった二重の瞳。アイドルグループにいてもおかしくないというと言いすぎかもしれないが、平均よりはかわいいと言えるんじゃないだろうか。
 同い年だし、気兼ねなく物事を言い合える間柄だと思うが、付き合いだしてからそろそろ一年経つというのに、言い争いをすることすらまれだった。
 従順というのだろうか、優柔不断なだけなのだろうか。
 ヒトミはボクの決めることに異を唱えることなどなかったし、自分から強く主張することもなかった。
 何事も決めるのはボク。それに従うのがヒトミ。そんな関係性だった。
 一緒にいて、居心地が悪くなることはなかった。しかし、いつも従うだけのヒトミが、物足りないと思うこともなくはなかった。

 出会いは、よくある友達からの紹介だった。
 地元の信用金庫に就職して五年。周りの友達の中にも結婚するやつが出てくると、合コンの誘いも少なくなってきて、出会う機会そのものが減ってきていた。
 職場でそういう相手を作りたくはなかった。職場で付き合うなんて、結婚というゴール以外は、地獄でしかない。それどころか、結婚したとしても、職場でも家庭でも一緒にいるなんて、まるで地獄だ。そんなの、まっぴらごめんだった。
 なんなら、彼女なんていなくたっていい。
 そう思っていた矢先、高校時代の同級生から声をかけられた。彼氏を欲しがってる子がいるから、飲みにおいでよ。別に断る理由もなかったから飲みには行ったが、その時は別に何も思わなかった。とはいえ、連絡先は交換したし、何となく次のデートも約束することになった。
 そんなこんなで、今に至るわけだ。
 じっと視線の先でキャベツを刻んでいたヒトミが、不意にボクを見返した。
「ねえ、コウくん、サラダ油がないんだけど、新しいの買ってあるの?」
「あ、ゴメン。ないことにも気付いてないよ」
「少しは自炊したらいいのに。じゃ、ちょっと買ってくるよ」
「あー。ゴメンねー」
 心にもない謝罪を口にしながら、ボクは心の中でガッツポーズを掲げていた。
 これで、またヒトミの足音が聴ける。
「何かやっておくことある?」
「コロッケの下ごしらえしてあって、あと揚げるだけだから、テレビでも見てて」
 ミュールを履いて小走りに出かけるヒトミの後姿を見ながら、ボクはドキドキしていた。
 スーパーはすぐ近くにあり、歩いて行ったって十分とかからない。
 ヒトミが戻ってくる「その時」を噛み締めるため、ボクはテレビをつけることもなく、ただじっと、耳を澄ませていた。
 築三十年の二階建て木造コーポの二階。地元の信用金庫に就職はしたのだが、実家からは出ようと思っていて、ただただ安さに惹かれて契約したアパートだった。畳敷きの1DK。靴が四足しか置けない小さな玄関。バスとトイレは別。ガスはプロパン。全体的に古ぼけていたが、不潔ではなく、ボクはここが嫌いではなかった。
 しかし、苦手なものが一つだけあった。
 階段だ。
 廊下の端に一直線の斜めにかかる、薄っぺらい鉄製の階段。
 細く錆び付いた鉄製の手摺も含め、単純に強度に不安があった。
 いつか踏み抜いてしまうのではないか。
 いつか手摺ごと外に投げ出されてしまうのではないか。
 だからボクはいつも、不格好に、背を曲げ、腰を落とし、一歩一歩確かめながら、手摺をしっかりと握りしめて階段を上がり降りしていた。
 高所恐怖症というわけではない。このアパート以外の階段では、普通に振る舞える。なのに、なぜかこの階段だけが苦手だった。賃貸契約をするときに、大家さんから雪の日にこの階段で滑って大怪我をした人がいたから気を付けるように言われたことも無関係ではないだろうが、それだけでは説明がつかないほど不自然にボクはこの階段を恐れていた。
 気付いたのはいつだっただろう。
 ヒトミがこの階段を駆け上がってくる足音に。
 瞬間的に、それがヒトミの足音であることを確信した。
 と同時に、その高らかに突き抜けるような金属音に衝撃を受けた。
 それ以来、ボクは切望するようになった。
 ヒトミの足音を。
 そしてまた、その音が響き渡る。
 来た!
 全身を緊張させ、神経を聴覚に集中する。
 カッツン、カッツン。
 しかしその薄っぺらい金属音は、ボクの期待をパチンと弾けさせた。
 違う。これはヒトミの足音じゃない。
 体重の軽そうな音だから女性っぽいが、ヒトミのようなリズムというか、ポジティブなエネルギーのようなものがまったく感じられない。むしろ逆だ。低いヒールを重そうに持ち上げる、リズムの悪い足音。生活に疲れたイメージ。たぶん、二部屋隣に住んでいるシングルマザーの足音だ。
 根拠もなく、ボクは確信していた。
 カッツン、カッツン、カツッ。階段を上り終えたその足音は、コツコツとコンクリートの廊下を叩きながらボクの玄関の前を通り過ぎて行った。
 落胆の詰まったため息を宙に吐き出す。
 その次の瞬間、歓喜は訪れた。
 カン、カン! 心地よい金属音。カン、カン! 一段飛ばしで駆け上がってくる軽快なリズム。カン、カン! 聞いていると、気分が高揚してくる。カカンッ!
 そしてすぐに、玄関がノックされた。確認などする必要はない。ヒトミが戻ってきたのだ。薄っぺらい玄関のドアを開けるなり、ボクは驚いて立ちすくむヒトミを強く抱きしめた。

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