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【短編小説】空気に何が書いてある(9/10)

 空気を読めない人間は、「悪」だ。

 法律的な話ではなく、社会的に「悪」なのだ。

 そして女は思い出す。

 キッチンの戸棚の奥に置いたままの、瓶に半分残った殺鼠剤の存在を。

 私が空気を読むのだ。

 脳裏に閃いた。天啓のごとく。

 ハトのように、カラスのように、ネコのように、排除するのだ。老婆を。

 でも、どうやって。玄関の前にウインナーを置いても仕方ない。

 いや、確か、老婆は毎日弁当を宅配してもらっているようだ。そこに殺鼠剤を仕込めばいい。

 デイサービスに行っている間に宅配される弁当は、玄関前のボックスに入れられる。鍵があるはずだが、盗難防止のためなのだから壊したって中に弁当が入っていれば老婆は気にしないだろう。

 アイデアが、次から次へと湧いてくる。

 私は冴えている。うっとりと天井に視線を向けていた女は、目の前に息子が立っていることに気付いて思わず声を出すほど驚いた。

「おかえり。早かったわね」

 息子の帰宅に気付かなかった動揺を隠せないままの女の言葉に、しかし息子は反応しなかった。

 無言のまま俯いている。

「どうしたの?」

 息子の肩に手を置いた女は、その服がぐっしょりと濡れていることに気付いた。

「ねえ、ママ。読めないよ……」

 掠れた声が、息子の口から漏れる。

「空気に何が書いてあるか、読めないよ……」

「どういうこと? 何かあったの?」

 濡れた服を着替えさせながら、女は息子の話を聞いた。

「みんながアポロくんをいじめてるから、やめなよ、っていったら、みんなが空気読めないっていうの」

 なんだ。他愛無い子ども同士のやりとりか。

 安堵とともに、関心も消えた。

 着替えを終えた女は、息子よりもこれから自分がやるべきことで頭がいっぱいだった。

 老婆を排除する。駐車場のカラスやポンプ室のネコのように。

 それこそが、自分に期待されていることなのだ。

 大事なのは、空気を読むことなのだ。

 不思議と恐れはなかった。

 殺人で捕まることなんてあるはずがない。

 女には、動機がないのだから。不審死に警察が動いたとしても、女が捜査線上に上がることなどありえない。

「空気って透明なんじゃないの? みんなには何が見えてるの?」

 息子の話が続いていたが、女の耳には入ってこなかった。

 いや、待て。焦ってはいけない。

 老婆はカラスやネコとは違う。殺鼠剤をどれくらい使えばいいのだろうか。

 女は、こんな時でも冷静でいられる自分が誇らしかった。

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