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【短編小説】空気に何が書いてある(4/10)

 介護は追い詰められる。

 特に血が繋がっているわけでもない義母の介護など、どこにどうモチベーションを置けばいいのかわからない。

 楽しいことなど何一つなく、それでいて責任と重圧は途方もない。

 昼間、ちょっとうとうとしていただけで、おむつを汚した義母から悲鳴のような叱責を受ける。

 ほっと一息つく余裕すらない。

 こんなことになるとは、女は想定していなかった。

 週に一度は外食に行き、月に一度はエステに行き、年に一回は家族三人で一泊旅行くらいは行けると思っていたのに。

 話が違う。

 女は舌打ちしそうになるのを懸命にこらえ、わずかに歯軋りするだけに留めた。

 不満は地下深くで煮えたぎるマントルのように、女の精神の奥のほうでぐらぐらと沸騰していた。

 女にそれを解消する手段などなかった。

 それどころか、女の周囲には不満を増幅させるストレッサーが充満していた。

 劣化する肌。刻まれる皺。崩れゆくスタイル。毎日の家事。終わりの見えない介護。ママ友との軋轢。たいして増えない貯金。

 できることなら浮気でもしてみたい。

 セックスレスでもある女は、夫以外とのセックスを熱望していたが、介護に明け暮れる今は、そんなチャンスを与えてくれるはずもなかった。

 束の間の息抜きすらない、出口のない監獄。

 やたらと質量の大きなため息が、女の口からこぼれ落ちた。

 女はベランダに出て、夕焼けを眺めた。この家で、もっとも安らげる空間。

 そんな女の聴覚神経を、濁った鳴き声が掻き乱した。

 グワグワ。ホーホー。

 無数のカラスとハトとスズメが、眼下に群がっていた。

 こうなる原因はわかっていた。このマンションに住むママ友に聞いたのだ。このマンションの4階に住む老婆がベランダから鳥の餌を撒いていた。マンションの駐車場に向け、大量に。結果、車の上だろうが階下のベランダだろうが、餌とともにカラスやらハトやらの糞が降り注ぐことになるのだった。

 住人は、マンションの管理組合を通じて何度も注意を促した。それでも、状況は改善しなかった。やがて注意は警告となり、恫喝となった。それでもまだ、老婆はベランダから餌を撒き続けた。何人かはマンションの駐車場を解約し、全ての住人は老婆を無視することにした。

 当然、女も老婆を無視していた。むしろ、安らぎのひと時を邪魔されて、許せないとすら思っていた。

 グワグワ。ホーホー。

 濁った鳴き声は、いつまでも続いていた。

 煮えたぎった油をここからぶちまけてやろうか。

 イライラを少しでも解消するために、それは有効な手段のように思えた。でも、残念ながら今ここに煮えたぎった油がなかったので、女はそれを実行することをあきらめた。

 義母のうめき声が、ベランダにいる女の耳にまで届いた。

 深い深いため息を吐きながら、女は義母のいる和室に排泄介助のために向かっていった。

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