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まあまあな人生だった。 ナゼか? ③

講演とか打ち合わせとかが結局顔合わせてナンボの種類のさらにそんなに急がない「不要不急」なものばかりなのだからキャンセルが続いてヒマなのだ。それで近所を走ったりしている。恵まれてるなと思うのは海沿いの道を好きなだけ延々と走れる。どのくらい走ろうか決めずに走り出してゆっくり海沿いの道を行くのは瞑想の時間の様だ。これは家から7キロほど行ったところの写真。この見出し画像に使うのに良さそうだと思って撮った。まもなく夜の海になるその向こうに今日の最後の光がある。悪くない。

諦めが悪いのは性格なのだろうか?
だとしたら僕の最大の良い形質かも知れない

ワイドショーのディレクターを2年半ほどやって「世界料理大賞」というスペシャル番組のAPをやってその後「TVスクランブル」の後番組、日曜日8時に加藤光夫さんが番組をやることになってその番組の制作会社であるIVSに出向するみたいなことになった。局の社員が制作会社に出向(実質的に)するのは後で考えると異例なことなのだがよくわからないから28歳日本テレビから歩いて5分のIVSに通う様になった。受け入れ側も戸惑っていたのかも知れない。そこで出会ったのがテリー伊藤さん。当時は伊藤輝夫さん。IVSのエースディレクター。僕の演出の最初の師匠になった人だ。この人に会わなかったら僕の人生は全く違ったものになっていただろうし当然「電波少年」みたいな番組は生まれなかった。「天才たけしの元気が出るテレビ!」第一回の放送に向けてオープニング企画は伊藤さんの右腕だった稲葉という僕より年下の男が「お嬢様を探せ!」という企画をやることになった。その次のその日のメインコーナー「おらぁ東京さ行くだツアー」という青森の一度も東京に行ったことのない家族が上京して東京見物をして最後に郷土の英雄淡路のりこさんに会うという企画のディレクターをやることになった。レポーターは兵藤ゆきさん。そしてそのロケを構成して撮影のスケジュールを立てロケをして編集をして音楽をつけナレーションを入れてスタジオ収録の日が来た。
一本目ということでたけしさんもテンションが高くオープニング企画「お嬢様を探せ!」のビデオのウケもよくお客さんはよく笑っていた。そして僕の担当する「おらぁ東京さ行くだツアー」のコーナに入りビデオが流れはじめた。約11分。スタジオに200人ほどいたお客さんが誰一人笑わない。クスッとも笑わない。東京にやってきた家族が初めて新宿の高層ビルを見たり回転寿司を食べたり原宿を歩いたりする。最後には淡谷さんにあって感激する。面白そうなことやっているビデオ。でも結局11分間誰も笑わなかった。スタジオに戻った。たけしさんが言った。「まあ放送の時にはこのビデオはないですから」久しぶりにお客さんが笑った。
結局もう一度その家族を東京に呼んで放送日までに全部撮り直すことになった。担当ディレクターはIVSの本来は他の番組をやっているディレクターが急遽招集されて撮った。僕はそのリテイクのロケ現場に”ただ立っている人”だった。
「元気が出るテレビ」のレギュラー放送が始まった。一応僕の担当のコーナーはあるのだが全てのロケに伊藤さんが付いてきて僕が事前に決めていたことはその現場で全部ひっくり返されロケして編集したものを見せれば全部直されという日々が始まった。局のディレクターという肩書だったが実際には伊藤さんの指示通りに動くアシスタントディレクター『AD』だった。
仕方ないことはわかっていた。とにかく僕が作ったビデオはお客さんが一人も笑わないという厳然とした事実があった。でも日本テレビに入って6年。それなりに働いてきたつもりだった。でも”笑えるビデオは作れない”だった。正直に告白すれば情けなくて寝る時に泣いた。枕が濡れるって本当にあるんだなと思った。
恥ずかしい話をなぜ書いているんだろうか?
「元気が出るテレビ」は好調だった。荒川区の熊野前商店街を元気にするという企画が当たってスタートして2ヶ月後に20%を超えた。好調な視聴率の番組のスタッフではあったが僕は未来を全く明るく感じることはなかった。真っ暗だった。お客さんが笑ってくれるビデオを作れる技術を身につけられる希望の光は遠くにも見えなかった。そんな気がしていた。どん底の気分の毎日だった。

どん底のそのまた底で思った。10年かかるかも知れない。20年かかるかも知れない。でも僕は諦めることをしない、と決めた。真っ暗闇の日々だが歩き続ければいつか必ず光があるところに出る日があるはずだ。
それは性格なのかどうかはわからないが確かにそう思ってそう決めた。
いつかお客さんが笑うビデオを作れるディレクターになる。さらに図々しいことにその遥か何万光年先にあると思える「伊藤輝夫を抜く」とも決めた。

「元気が出るテレビ」が始まって3ヶ月。商店街を元気にするシリーズと全く違うフェイクドキュメンタリー「ガンジーオセロがやって来る」シリーズが始まることになった。その担当をすることになった。東京の奥の秋川の河原でインドの川に見立てたロケをした。なぜか伊藤さんがそのロケに来なかった。編集も珍しく伊藤さんに直されることなくスタジオ収録を迎えた。
そしてそのビデオでスタジオにいる200人の客さんが笑った。痺れた。本当に震えた。その時に僕は「一生お笑いディレクターでいる」と決めた。

その後も僕の作ったビデオでお客さんは笑ったり笑わなかったりしたが少しずつその割合は笑う方になった様な気がする。そしてまだ図々しいことに僕の目標は次の「伊藤輝夫をいつか抜く」に移行していった。

28歳の時の「元気が出るテレビ」から23年後。当時やっていた「デジタルのバカバカ!」という番組に伊藤さんにゲストに来てもらった時に「実は伊藤さんをいつか抜く、と思ってずっと頑張ってきました」と告白した。伊藤さんは「土屋ちゃん。とっくに抜いてるよ」と言ってくれた。僕はまだ師匠を抜けたと思っていないが、その時に23年間思い続けていた目標の区切りがついた。

今回長くないか?

諦めが悪いとは達成するまでやめないと決めることかも知れない。
そうすれば達成できない目標はない。

あれからたくさんの夢を思い描いて目標みたいなものを立ててきた。そしてそれらのほとんどは達成されていない。だけど諦めないと決めているからいつか必ず達成されるのだ。
死が二人を、いや一人自分自身を分かつまでw


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そんなに「スキ」と言われない人生だったので嬉しいです。
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昔「電波少年」とか「ウリナリ!」を作っていました。最近はライブイベント(19年大阪『NO BORDER』)社団法人(18年1964TOKYO VR)映画監督(17年『We Love Television?』)2020年は世界向け企画塾を作り「欽ちゃんオーディション」も

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