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嫌いになりたくない

▼はじめに

お久しぶりです。
前回の投稿から約2カ月も期間が空いてしまいましたが、忙しくて時間が無かったからなのかというと、本当に忙しくて時間がありませんでした。厳密にいえば「一人の時間」というものが本当に無くて、綴るという行為への欲がほとんどありませんでした。

しかし今は、引っ越し作業も落ち着いてWi-Fiも開通して少し東京に慣れてきたようなそんな気がしています。

これまでのnoteでは、読んだ本の感想文だけではなく【脳内日記】という名前で、当時の考えや愚痴や想いや愚痴やらをたらたらと日記感覚で書いていましたが、そのネーミングセンスの無さと「【 】」の威圧感に納得がいかなくなったので、今回のタイトルはシンプル・イズ・ベストを意識しました。(ついでにこれまでのタイトルも変更しました。)

ということで、さっそく本題へ。

▼本音と建前

随分前に冒頭数巻を読んで強く印象に残っている漫画があります。その漫画のタイトルは『変態王子と笑わない猫』です。物語の始まりは「本音が言えない男子高校生」と「本音でしか話せない(建前で話せない)女子高校生」という対局の二人が、同じ神社でそれぞれが『自分の欠点が直りますよう』にとお願いをしたことで、二人の"本音が言えない性格”と”本音しか言えない性格"が入れ替わってしまう、というものです。

それによって「本音が言えない男子高校生」は、本音が言えるようになりましたが、それによって受けた恩恵はもちろん良いことばかりではありませんでした。その男子高校生の性格には、本音が言えない代わりに本音を脳内で爆発させるという強烈な妄想癖がありました。年頃の男子高校生なのでそれが別に特別なことではないのですが、常日頃から本音を言えないストレスを脳内で爆発させていたのでした。

そんな彼が、唐突にも本音を伝える力を手にするわけです。今までは妄想の中にあったから良かったものの、過激な妄想は脳内を超え、目の前の女子高校生へと辛辣なまでにセクハラ発言を口にするようになりました。その姿がまさに寡黙でクールなイメージから一変した『変態王子』なのです。

この漫画では、本音と建前のどちらかしか持てない二人の男女の葛藤が描かれていますが、僕らには脳内に天使と悪魔がいるように本音と建前が両立して存在しています。これらの使い道を間違っては人間関係の歯車は少しずつ噛み合わなくなり、いつしか二度と合わない関係にも発展してしまいます。

『本音と建て前』、僕らは正しく使い分けができているのでしょうか。

▼嫌いにはなりたくない

最近巷では『花束みたいな恋をした』という映画が流行っているみたいですが、それを観た人の評価は人それぞれで「こんな人は観た方がいい!」とか、「あの人と一緒には観ない方がいい...」とか、単純に「絶対観ない方がイイ!」とか、本当に様々です。
僕自身まだ観ていないのでネタバレのしようがないのですが、ざっくりとしたあらすじはというと、一組の男女が同棲をきっかけにすれ違っていくそんな様子を、とてもリアルに、自然に、切実に、映し出した作品のようです。

そんな僕は、同棲ではないけれどそんな話に関連しなくもないようなそんな最近の出来事をここで話します。

僕は約1カ月前に上京してきて、現在は都内で一人暮らしをしています。完全に偏見ですが、せっかく上京したのにすぐに地元に帰る人の特徴は「友達が作れなかった」という要因が少なからずある気がします。

しかし、僕にはすでに東京に出てきていた友達が数人いて、まだ入社もしていない今ですら少し知り合い程度の人ができ始めています。別にマウントを取りたいわけではなくて、友達を作っていくためには「友達になりたい」とか、「楽しさを伝える」とか、最低限そういう努力をする必要はあるだろうなぁと思います。
大抵の人が、万人に好かれるようなカリスマではないので。

で、そんな数人の友達の中に、高専時代の一番の友達と言っていい人間がいました。その人は、高専を中退したものの、一緒にいた時間はきっと一番長くて、酒がなくても夢を語れて、失恋したときには二人で「悲しいよなぁ...」なんてマクドナルドで涙を浮かべて話せるような、そんな仲でした。

その友人は少し前まで、千葉の友達の家に居候していたらしいのですが、その居候させてくれていた人の仕事柄、生活リズムが中々合わず、迷惑をかけているということを気にしていたそうです。そんな時、僕が東京に越してくるということを知って、僕の家に居候させてほしいとお願いしてきました。

そのお願いをされた僕は、高専での寮生活に少しだけ憧れていたこともあって、実際やったら楽しそうだな~という軽い気持ちと、まぁ何とかなるだろう!という安易な心構えで了承しました。

しかし...

居候が始まって一週間が過ぎたあたりから、二人でいる楽しさよりも一人でいる快適さが自分の中で大きくなっていることに気が付き始めました。

原因は塵も積もれば何とやらで、居候初日にその友人が「おれにはたぶん居候の才能がある!」と極端にハードルを上げたこと、実際に住んでみたらお湯の温度は爆上げにしたままでシャワーの設定も変えたまま、ウォシュレットの強さも最強にして、挙句の果てには、夜中に女と散歩してくると言っておれに洗濯物を干させて朝帰り。家事なら何でもできると言っていたのに、結局した家事は皿を2,3枚洗っただけ。そして、いきなり今日で仕事をやめてきたと言うその姿勢に呆れて、勇気を振り絞って居候の中止を伝えました。

この経験から、いくら仲が良くても不可能なことってあるんだなぁということを学びました。

泊まることと住むことの違いや、親しき中にも礼儀ありをおもっくそ体感しました。だからといって僕らの仲が悪くなったわけではもちろんなくて、これからもモノゴトを楽しいと思える感性を重ねるように楽しんでいこうという決断になりました。

失敗したままでいる僕らでは居たくないなあと強く思っています!

▼おわりに

ある人が、『お前らはその人のすべてを知らないで物を言い過ぎる癖がある!知らないままに決めつけるような発言をして当事者に与えるリスクを考えたことがあるのか!』と怒られたそうです。

確かに、僕には直観で物を言う癖があります。初対面でも「あ、この人ってきっとこんな人なんだな」とか、毎回のように考えて口に出してしまっています。じゃあそれが完全に間違いかというとそうではなくて、意外と当たっていることの方が多いことに僕はいつもながら満足気です。

でもそこがダメなところみたいです。

でもさ、もしも『すべてを知らないと発言できない』ルールで生きていた場合、この世から言葉とかコミュニケーションって無くなりませんか?

すべてを知ることは不可能で、最大限すべてに近い部分を知るために、コミュニケーションが必要なんだと思うんです。悪口も確かにひどいことだし、陰口は卑怯です。でも自分が被害者だと仮定したときに、何より深く傷つくのは無関心なことなんじゃないかなあ、と思います。

何も知らずに話してしまっていることはもちろん反省してます!ただ、すべてを知らずに話すリスクよりも、すべてを知らないと話せないリスクの方が僕は高いと思ってしまっています!

優しさ故に注意をしてくれている友人に反骨精神を掲げるような、こんな僕にこれからもどうかチャンスとアイディアをください。



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