創作物におけるリアリティの追求
小説、エッセイ、マンガ、アニメなど、世の中には創作物が溢れています。これらが公開された際に読者や視聴者から一定数寄せられがちな「リアリティがない」「設定がぶっ飛びすぎ」というコメント。では、創作物においてリアリティはどこまで追求するべきなのでしょうか。
はじめまして、蓮城徹です。私も物書きを目指した時分があり、とある投稿サイトでちょっとした短編小説を掲載していたことがあります。その際にもリアリティに対する批評・批判が寄せられたことがありましたので、今一度考えてみることにしました。
結論:創作者の好きにしろ
考えてみる、といった矢先に結論を持ってきました。しかも、身も蓋も無い結論です。蓮城アホかよ、と思われた方も多くいるかと思いましたので言い訳させてください。
補足:目的に合わせて決めろ
つまりそういうことです。主観になりますが、リアリティを決める際の判断材料としては次の2つの決め方があると考えています。
①賞に応募するor特に評価は求めない自由投稿
②自分の文章力の有無
①賞に応募する場合において、まず考えなければならないのは審査員です。大体のコンペ・賞選考においては募集要項が発表されると同時に、審査員についても紹介されます。『有名作品Aの著者A氏が審査員!』というような触れ込みのことですね。
この場合求められるのは、A氏にウケる作品はどういうのだろうか、という思考です。A氏の過去の著作を読んだりしながら、この審査員はリアリティ路線なのか、それともファンタジー路線なのか。或いは幾度となく審査員を務めている方であれば、同じような展開は食傷気味だろうから、敢えてぶっとんだ展開で攻めるか、と言った考え方です。賞を取りたいのであれば、募集要項を通して審査員とのコミュニケーションを取らなければならないのです。ですので、この場合におけるリアリティの追求程度は審査員に合わせる、というのが正解です。
一方、賞応募の場合ではない自由投稿ではどうでしょうか。選考にかけるわけではないので、正しく創作者の自由とも言えますが、創作者の希望を『高評価を貰いたい』という場合に限定してみます。
この場合は間違いなく『リアリティをかなり追求するべき』と言えるでしょう。自由投稿の読者は、それぞれが異なったバックグラウンドを持つ群衆です。その為、先の賞応募の場合と異なり、フォーカスする対象が明確ではありません。しかも、こういった一般読者に限ってなんちゃって評論家になりがちです。とすれば、何をもって良い作品と評価するか。それは、自分たちの持つ『常識との乖離程度』になるのです。読者がその創作物を読んだ際に、自分の持つ常識で消化可能な内容であればわかりやすくて良い小説となり、消化不可能であれば一部の例外を除いてですが、チンプンカンプンでよくわからない小説だった、という評価を受けることでしょう。常識、とは普段私たちが社会生活を行う上で実態を見る、もしくは論理的に理解されていること、とも言えますので『常識と乖離しない=リアリティがある』と読み替えて良いでしょう。
文章力は全てを超越する
概ねの場合、これまでの基準に従って判断することが出来ると思いますが、上記で示したように例外というものが存在します。それが、創作者の文章力です。文章力、という言葉は曖昧なので、今回のテーマにおける文章力を次のように定義します。
文章力:情景描写、てにをは、文法の正確性、論構成、感情表現等の総称
つまり、文章力が極めて優れていればリアリティの追求なんてどうでもよくなるということです。文章力に依存する場合はこれまでの場合と異なり、当然難易度は上がります。何故なら、制限された文字数の中で読者に対して『新しい常識』を植え付けなければならないからです。
しかし、新しい常識を植え付けてさえしまえば、読者も「この創作物における常識は現実の常識とは異なる」ということを正しく理解することが出来るため、リアリティ0%の創作物においても常識との乖離という評価基準を無視することが出来るのです。この極致に至った方であれば、最早言い訳無用、好きなように書いても高評価をしてもらえるでしょう。
圧倒的な文章力の創作物であれば、「理解できないほうがおかしい」という同調圧力も働き、何となく高評価にされる場合が多いと思います(当然逆張りして低評価を押す人はどこまでもいますが)。
結局のところ、リアリティを追求するかどうか、ということは文章力が不足している創作者が小手先のテクニックとして程度を決めるべきことであって、この部分をいちいち心配している暇があったら文章力を伸ばすべきだ、という正論を述べた上で筆を擱きます。
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