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NiziUのライブが衝撃的だった。

今日、NiziUというアイドルグループの、初めてのツアーに参戦した。本当に感動してしまい、終演して5時間経った(宮城から神奈川へ帰宅し、PCに向かっている)の感情を整理したくこの文章を書き始めた。

率直な感想を先に言うと、「今まで見たどのライブよりも、自分が観客としてそこにいる意味と幸せを感じた」。なぜそうなったのかを言語化していくのが、この記事の目論見になる。

唐突だが、こんな有名でも何でもない書き手のnoteを読み始めているあなたの好奇心を信じて、ブラウザを閉じられない前提で(笑)、ちょっとだけ身の上話をする。

t-poyoは音楽が好きなあまり大学を中退し、音楽を仕事にするために数年間活動した。アルバイトをしながらインディーズバンドに所属し海外フェスに出演したり、僅かながらその他楽器演奏の仕事もやっていた。今は音楽の道を逸れて、会社員として働いている(今もひどく幸せなので特に後悔はしていない)。

そんな中で、いままで自分が演奏したり好きで見てきたライブの多くは、かなりピュアな「アート」の形をとるものだった。そもそも楽器を演奏したり歌を歌うという行為は、録音による永続化ありきで文化として積み重ねられてきたと思う。音楽は(永続化された)「作品」の形を目的とするアートであり、ライブはその作品を「聴衆の目の前で作り上げる」ことの偶然性やそのアナログな質感に重きを置くものだと思っていた。

しかし、NiziUのライブはひと味違った。「永続化された作品はあくまで結果でしかなく、ファン(With Uと呼ばれる)がまず最初に存在し、それをもってNiziUが存在可能で、そこから作品が生まれる」という解釈を強く感じる。

ファンが存在してくれているから、NiziUがある。NiziUが存在出来ること自体がメンバーの幸せであり、その恩返しをするために最高のパフォーマンスと楽曲を披露する。そこにはファンから始まる幸福の連鎖がある。

どんな音楽家も「ライブを聴衆と一緒に作り上げる」とか、「このライブはこの1回しかないものだ」という認識を持っていると思う。それはまぎれもない事実で、自分がライブで演奏する立場でも聴衆の立場でもそう感じていた。

しかし、「聴衆がいない限り、音楽は文化として成り立たない」という前提は意外と見過ごされがちなのかもしれない。シュレディンガーの猫のように、人に認知(観測)されなければ音楽からお金は生まれない。

ここまで音楽の話をしてきたが、この話は音楽に限らない。本質的には「社会性なしには人は生きられない」ということと同じだと感じる。アートなどの「技量」という尺度がある分野では、この観点(受け取る人がいないのならば、技量そのものの社会的意味は皆無といえる)ということを、見過ごしがちなのかもしれない。

小難しい話になってしまったけれど、つまりNiziUのライブでは、幸せを循環させるという通常極めて難しい人間的な営みが、なぜか簡単に可能になってしまっていたということを言いたかった。それはJYP Entertainmentの社訓やNiziUメンバーの精神的豊かさに起因するんだと思う。

その幸せの循環をとてもわかりやすく体現しリードしているのが、MAKOとMAYAというメンバー2人だなと思ったライブだった。MAYAしか勝たんのよ。一生ついていきます。ありがとう。


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