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夏の終わりは秋のはじまり * 処暑

UVカットパーカーのフードをしっかり被った上に菅笠を被り草引きをしていたら、授与所の窓口に歩いてゆく中年の男性が見えた。

その時窓口にはだれもいなかったので、私はすばやく授与所玄関に入り、菅笠とパーカーを脱ぎ捨て、手を洗って窓口に立つ。

男性は御朱印帳を私に差し出して、
「ここは坂上田村麻呂ゆかりの神社ですよね?」
と言う。
ちがうので、「ちがいます」と答えると、男性は無茶苦茶びっくりして
「ええええ」とのけぞり、差し出している御朱印帳をひっこめた。そして悲しみのどん底にいる人みたいに
「紙でください」
と言った。

どうやら彼の御朱印帳は坂上田村麻呂専用だったようである。表紙に坂上田村麻呂云々と書いてあるのがチラ見えした。

私はなんだか悪いことをしたような気がした。

「ちがいます」なんて言わずにただにっこりうなづいて、彼の田村麻呂神社コレクションをひとつ増やしてあげてもよかったんじゃないか。

今日の反省である。

***

祝詞のりとを奏上していると、頭の上を丸っこいもふもふした者が、重低音を発して飛んでいる。私はノールックで「ああ、クマバチだ。」と思い、澄んだ湖のごとく平常心で祝詞を続ける。

彼らは花の蜜を吸う「ハナバチ」というジャンルの蜂で、温厚な性格だから、こちらから喧嘩を売らないかぎり刺してくることはないのだけれど、黒くてもふっとしているうえに、ブゥーンという重低音の主張がはげしいので、参拝のお客さんは、「神主さんが刺される・・!」と思って気が気でないらしい。終わった後に、「刺されなくて良かったですねえ」と言ってくださる方もある。

クマバチは本殿ほんでん拝殿はいでんの間にある木製の灯篭とうろうの屋根に、穴を開けて住んでいる。肉食であるスズメバチのいかにも極悪めいたデザインの大きな巣を思うと、基本的に一人住まいの借りぐらしであるクマバチは、かわいくすら思える。

日本では大きくて黒いものにクマと名づけがち、という例にもれず、クマバチは体長2センチほどで、ずんぐりと太く、体は黒い。そして、胸にもふもふの黄色いベストを着ている。オスはそれに加えて顔の額にも黄色いもふもふ(量的にはもふ、ぐらい)が生えていて、目がくりっとしているという特徴がある。

この特徴に照らしてみると、今ぶんぶん言いながら祝詞の邪魔をしてきているのはオスである。オスは、針を持たず、お花とメスのことしか考えていないらしい。普段は、縄張りの中でヘリコプターみたいに空中で止まる「ホバリング」をしながらメスを待っているのだという。

神職は神様の鎮座する本殿に近づいて、祝詞を奏上する。クマバチにとってそれは、動くものが縄張りに入ってきたことになる。そしてクマバチは追跡を始める。「メスなの? メスかな? おーい。メス?」 ぶぅぅぅん、ぶぅぅぅん。かしこみかしこみと言っている私のまわりをしつこく飛ぶ。
「私はクマバチではない。人間のメスだ」という無言のメッセージを発してもクマバチには伝わらない。

ロシアの作曲家、リムスキー=コルサコフのオペラ曲に「熊蜂の飛行」というのがある。ピアノ曲やバイオリン曲にも編曲され、羽音を表現するため無茶苦茶高速で指を動かす猛烈な曲として有名である。バイオリンを習っていた小学生のころ、超絶技巧のヤッシャ・ハイフェッツが編曲・演奏している「熊蜂の飛行」を聴いて感激し、何とか耳コピしようと試みたが、結局無理で、指をむちゃくちゃに動かして雰囲気だけを再現した。たぶん多くの平凡なバイオリン弾きは、熊蜂の飛行を雰囲気だけ再現した経験があるんじゃないだろうか。

***

夕方。一匹のクマバチが、拝殿の赤い毛氈の上に落ちていた。額に黄色いもふもふがなく、いかつい顔をしているので、おそらくメスと思われる。祝詞中にぶんぶんしてきた呑気なオスの相方だろうか。彼女が確かに生きたという証拠に写真を撮ったら、構図が何かに似ていた。

長谷川凛次郎の描いた「猫」に似ているのだった。

「猫」のねこには片方の髭が生えていない。画家が、ねこが同じポーズで寝るまで続きを描かなかったからである。そんなふうに動物とのんびり暮らしてみたい。と思いながらクマバチを外の土にそっと置いた。きっと、あっというまに蟻たちが片付けてきれいになる。私と違って、彼らは本当に勤勉だから。


長谷川潾二郎の「猫」は、宮城県美術館にいます。

処暑(しょしょ) 新暦8月23日ごろ

まだまだ暑いですが、いつの間にか蝉の声がしなくなって、蜻蛉が飛んでいます。神社の梅の木にも百舌がやってくるころです。秋祭りのために子供たちが太鼓の練習をしています。

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