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イザベラ・バードの泊まった部屋

日光に出かけた母と私は、現存する日本最古のリゾートホテル「金谷ホテル」にチェック・インした。クラシックホテルならではの、木のぬくもりと重厚感。革靴で歩いても音がしない床。大きな木札に繋がっている、ちゃんと鍵のかたちをした鍵。部屋はシンプルだが、廊下や階段、ロビーなど共有部分には、びっくりするような悪趣味すれすれの日光東照宮モチーフのかずかず。時の流れとともにそれらが融合して、唯一無二の居心地の良さを醸し出している。



心地よいベッドに横たわるとすぐに寝てしまいそうになるが、我々は用意されていたお茶を飲んで一服し、この素晴らしい金谷ホテルの前身である「金谷カッテージ・イン」(今は「金谷ホテル歴史館」として公開している)に向かった。


今も残る金谷ホテルの前身「金谷カッテージ・イン」の建物

それはかなり立派な武家屋敷であった。そもそもは東照宮の警備を担当する日光奉行所役人の官舎として建てられた住まいらしく、それを1800年ごろに金谷家が拝領したという。金谷家は当時、東照宮楽部の楽師で「しょう」という楽器を担当していた。

私はいま神職も楽人(龍笛)も両方するのだが、楽人仲間はほとんどが兼業で、楽だけでこんな立派なお屋敷に住んでいる人などいない。当時の日光東照宮の栄えっぷりがうかがえる。

資料によれば東照宮に楽人が創設されたのは、寛永の大造替が終わり、今の東照宮の建物が完成した年の翌年にあたる1637年(寛永14)のことで、そもそも家柄もそれなりに良い武家が「きみたちは楽人やりなさい」と言われて楽人になったということらしい。

三代将軍家光の上意により、三方楽人という、雅楽のオーソリティの中から日光楽人の指導役数名が選ばれ、彼らは京都から日光に来山して東照宮楽人の指導にあたったそうである。地元でオーケストラを結成して本場から指導者を招いたような感じである。以後、指導は200年の間に十数回あったという。

歴史館は、隣のパン屋さんでチケットを購入し、入場ゲートをぐるぐるっと回して入ると、下駄箱があり、そこから新しめの建物に入って無人の展示コーナーで資料などを見るしくみで、さらに奥に進むと湯殿と台所の間から武家屋敷に入れるようになっている。玄関からではないところが、そそられる。

五右衛門風呂や、鉄の扉にアルファベットが書いてあるかまどを、母と二人で「いいねいいね」と言いながら見ていると、この建物の守り人らしき年配の女性が現れて説明をしてくれた。

彼女の話によると、明治維新後の1870年(明治3年)、ヘボン式ローマ字を考案したヘボン博士が日光を訪れた時に、金谷善一郎が屋敷内の部屋を宿として提供したのがはじまりで、ここをめちゃくちゃ気に入ったヘボン博士が、金谷善一郎に外国人向け専用宿の開業を勧めた。それを受けて善一郎は1873年に自宅の武家屋敷で外国人専用の民宿「金谷カッテージ・イン」を始めたという。今でいう民泊である。楽人としての仕事もあっただろうに、そんな暇があったのだろうか。

雅楽の場合、笙・龍笛・篳篥という三つの管楽器を三管と呼び、家ごとにどの管をするか決まっていた。笙の家。龍笛の家。篳篥の家。今はそんなことはないが、笙の家に生まれたら一生、笙を吹く人生だった。金谷家の場合、それが200年、善一郎で9代続いてきた。なのにとつぜん宿業を始めたのは何故。

と思ったが、それは時代の流れなのだった。善一郎が15歳の時に明治維新が起こり、大政奉還。ヘボン博士が来日した時は善一郎18歳。父親が死んで善一郎が家督を継いだのが20歳。日光東照宮は徳川幕府という大きな後ろ盾を失い、神仏混合で栄えていた日光山は東照宮・二荒山神社・輪王寺の二社一時に分離され、楽人の給与も減給されていた。

「だったら宿業をやってみるか。英語できないけど、ヘボン博士が紹介してくれる、ちゃんとした外国人客なら、なんとかなるかもしれない」という感じであったと推測する。

***

「ここがね、19世紀のイギリス人探検家のイザベラ・ルーシー・バードさんが泊まったお部屋です。バードさんはこのお部屋からの眺めがとっても気に入ってらしたそうですよ」

屋敷の守り人が案内してくれたその部屋は、二階の八畳の和室だった。書院づくりのすっきりとシンプルな部屋だが、ばつぐんに居心地のいい空間である。1878年というから開業して5年後くらいに、バードはここに泊まっている。そして彼女は日光で英気を養ってから、会津から新潟に抜けるUnbeaten Tracks in Japan(日本の未踏の地)に挑むことになる。ま、外国人にとって未踏の地なのであって、そこには村もあるし人も住んでいるのだが。

イザベラ・バードは、西洋人特有の真面目さと、客観的で公平あろうとする姿勢で、自分の目で見たありのままを、家族に宛てた手紙の形式で書き、それは’Unbeaten Tracks in Japan’のタイトルで出版されている。この本は2年ほど前にkindle Unlimitedで原文と和訳とを交互に読んだ。事実を淡々と書き綴っていても、どうしてもにじみ出てしまう上から目線とキリスト教的な思想。彼女の文章にツッコミを入れたり、へえへえそういう視点もあるのだなと関心したりするうちに、ふしぎな親愛の情がわいて、彼女が泊まった部屋をぜひ見たいと思っていた。

イザベラ・バードの泊まったお部屋。
バードが賞賛した床の間。


バードは著書の中で、宿主の金谷善一郎についてこう書いている。

Kanaya leads the discords at the Shinto shrines; but his duties are few, and he is chiefly occupied in perpetually embellishing his house and garden.
(金谷は神社での不協和音演奏をリードしているが、その仕事はほとんどなく、自分の家と庭園を絶えず美しくするのが主な仕事となっている。)

Isabella.l.bird’Unbeaten Tracks In Japan’


まず雅楽のことを’discords’ (不協和音演奏)と表現しているところにセンスを感じる。なぜなら雅楽の醍醐味は三管が西洋で言うところの不協和音を奏でる瞬間で、私などは龍笛を吹きながら「キター!!」と激烈に盛り上がってしまうからである。彼女は雅楽の最大の特徴を掬い取ってdiscordsと一言で呼んだのである。そして「その仕事はほとんどない」という一文から、200年続いてきた東照宮楽人の、明治維新による衰退も見て取れる。

ちなみに日本で出版された邦訳には「金谷さんは不協和音(雅楽)の指揮者で」となっているが、雅楽に指揮者はいないので、おそらく金谷がバードに「笙」という楽器を説明する際に、「ベースの和音を吹いて、あとの二管をリードするような役割ですよ」的なことを言い、それをバードが素直に書き、それを訳者が「指揮者」と訳したのではないかな、と私は推察する。

バードは江戸から新潟までの道中に伊藤鶴吉という通訳を伴っている。彼女は著書の中で何度も「イトーは」と、彼について語っている。金谷さんは開業5年で英語が達者になっていたかもしれないが、バードと話す時もイトーを介していたとするならば、金谷さんの日本語をイトーが英語でバードに伝え、それをバードが解釈して文章に書き、さらに翻訳者が日本語に直した、という経緯を辿っていることになる。イトーは当時18歳で、世の中のことぜんぶは知らない代わりに、柔軟で新しい感性でそれを補っていたのだろうから、通訳でバードに伝えられた事柄には彼の感性が少なからず入っているだろう。原文も、和訳も、読むときには、日本語→英語→英語→和訳はさらに日本語 という変換を辿っていることを想像しながら読むと、とても面白い。

立派な火鉢

「すべてのお部屋に火鉢があるんですよ、笙のお家ですからね」
と守り人が言う通り、装飾品のあまりない客間での火鉢の存在感がつよい。

それは冬場に暖を取るという意味もあるが、笙という楽器を吹くには火鉢が欠かせないため、この金谷家では年がら年じゅう火鉢を出していたのだと思われる。

笙は、17本の細い竹が円形状にくっついている楽器なのだが、その竹の根元には金属製の簧(リード)がついていて、蜜蝋によって固定されている。この蜜蝋は炭火で温めることで滑らかに動き音が出る。そして吹いている間に楽器の内部に溜まる水滴を火で炙って蒸発させることで、細い竹管の結露を防ぐ。結露すると音が変わったり出なくなったりするからである。

私の吹いている「龍笛」という楽器は、一本の太い竹に穴を開けただけのシンプルな構造で、リードもなく、火鉢は必要ない。水滴も最後に布を管の中に通して吹き取る程度で、龍笛吹きの中には「自分なりの息の通り道が作られるのだから水滴は布で拭き取らない。」という、デニムは洗わない的なこだわりを持つ人もいるほどである。

だが笙の人たちは常に火鉢で楽器を炙りながら演奏しなくてはならない。現在、稽古には火鉢でなく電熱コンロが使われることが多い。大勢が集まって合奏の稽古する場合、笙の人たちは1人1台電熱コンロをつけて楽器を炙りながら演奏するのである。笙の人たちのために電気のヒューズが飛ぶこともある。

さて、バードの部屋からひとつ奥の、階段四段ほど下がったところに、バードに同行した通訳のイトーが泊まった部屋がある。ホテルでいうとコネクトルームみたいな構造になっているのだが、明らかにバードの部屋よりも暗くて小さく、その代わりに小さな囲炉裏があった。

伊藤鶴吉が泊まっていたお部屋の1人用囲炉裏。

この可愛らしい1人用囲炉裏を、母と2人でまた「いいねいいね」と賞賛していると、守り人はこの部屋の真下にある、家人の作業場に案内してくれた。

するとその天井から先ほどの伊藤が泊まった部屋の釜がぶら下がっていた。
上下階を同時に暖める画期的な発明である。

天井からぶら下がっているのは2階の部屋の囲炉裏にかけている釜。


アイディアと風情に満ちあふれた金谷カッテージ・インは外国人客から「サムライ・ハウス」と呼ばれ人気を博した。善一郎はその後、1893年に2階建ての洋風建築ホテルを開業。それが現在の「金谷ホテル」である。

彼が、楽人としての収入が減ったことをきっかけにピンチはチャンスで宿業を始めたから、現在の「金谷ホテル」がある。母と私はそのすてきな空間で、人生を振り返るとても楽しい一夜を過ごすことができた。それは、先人たちのアイディアと、「時間」にしか作り出すことのできない魅力を存分に味わった時間でもあった。ありがとう金谷さん。

金谷ホテルは唯一無二の無国籍空間。
和と洋、そして時間の絶妙なミックス。
東照宮モチーフ
名調子と白い手袋。クラシックホテルにはこういう方がいらっしゃるのがすてき。

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