原則に生きるのは難しくとも
信仰度★★★☆☆
「天理教ってなんだかイスラム教に似てますね」
(うわー、やべぇ人と一緒になってもうた)
そういう短絡で不躾な印象を持ったものの、その時の私は彼にとってのたった一人の聞き手だったので、コミュニケーションを続けるために、恐る恐る「それはどういうことですか?」と聞き返しました。
イスラームと天理教の類似点
数年前、修養科の教養係をつとめた時のことです。
当時の修養科生にヤベさんという70代の男性の方がいました。
ヤベさんは信仰初代の方で、町内会の活動から近所の教会と親しくなり、その後退職してからこの修養科を志願して、3か月の修養生活に入ったところでした。
修養科が始まってまだ日も浅い頃、一緒に本部神殿に向かって歩いていた時、ヤベさんが私に語り掛けてくれました。
「僕はね、昔から色々な宗教を礼拝したり勉強したりするのが好きだったんです。それで、ご縁があって天理教と出会い、私なりにこの教えを勉強している中でつくづく思うんですが、天理教に一番近いのは実はイスラム教なんじゃないかって気がしているんですよ。」
ヤベさんは天理教の教えに出会ったときに、日本のどの宗教とも似つかない感覚を抱いたそうです。そして、敢えて挙げるのなら、イスラームに類似を見たのだそうです。
「おぢば(天理教の本部)に向かって皆さん各方面から祈りますよね。あれってイスラム教とそっくりだと思うんです。聖地を持つ宗教は数多いけど、祈る対象としての聖地というのはあまり知りませんね。」
こんなことをヤベさんはおっしゃたと記憶しています。
成程、イスラームは確かに聖地メッカに向かっての礼拝が、日々の代表的な信仰活動に位置づいています。(「礼拝」…五行の一つ)
天理教において、人間のふるさとであるおぢばに参る(ふるさとに帰る=「おぢばがえり」)活動は、欠くことのできない信仰行為であります。
イスラームにおいても、可能なら一生に一度はメッカに「巡礼」の旅に出ることが重要視されています。
両教の共通性はハードの面でも見て取れます。例えば礼拝施設です。
イスラームのモスク(寺院)にはミフラーブと呼ばれるくぼみのような場所があり、それが聖地メッカのカーバ神殿の方角を示しているので、モスク内ではそこに向かって祈ることになります。
天理教の教会には礼拝の目標(めどう)としてお社が祀られていますが、原則として、その方向はおぢばに向くよう定められています。
天理教の本部神殿の建築様式こそは、「おぢば」という地点への信仰を具現化しており、おぢばその一点を囲って、四方向に礼拝場が建てられ、全方位からおぢばを拝むことができます。
そして、そのおぢばには何が祀られているかというと、これが何も祀られていない。「かんろだい」という六角形の台が礼拝の目標として据えられており、この台は非常に大切な役割を持ちますが、祀られる存在ではないです。
イスラームの聖地に対する信仰の強さには、イスラームが偶像崇拝を強く禁じていることが深く関係しています。実体を持つ絵画や像を神に見立てて拝むことを禁じ、モスクには聖像を置かず、ミフラーブによって礼拝の対象を厳格に定めることで、神の唯一性を保とうとするのです。
21世紀のイスラーム教徒はメッカの方角を示すアプリを端末にインストールしていて、どこにいても正しくメッカの方向を向いて拝むことができます。
天理教が偶像崇拝を積極的に否定するという話は聞きませんが、やはり親神様の像を別に造ったり、おやさまの絵画を飾って拝むという慣習はありません。
午後二時のサイレンが鳴ると、天理教徒が皆手を止めておぢばに向き直り拝をするのは、天理の日常風景です。
もちろんこれらは、私の主観から観測できる共通項を抜き出しているだけなので、似たような信仰形態でも、その奥にある人々の信仰の内面や、神学的な意味合いは異なることがままあります。
ご承知のように、イスラム教と天理教とは、相互に独立した教えであり、信奉する神さまも、信仰活動も大きく異なります。
あくまで今述べているのは、天理教に初めて触れるヤベさんの放った、
「天理教とイスラム教、実は似てんで」
発言の理解度を高めようとする私の言語活動です。
私らのような、もの心ついた時から信仰の世界で暮らした人間にはない感度を、今世初めて天理教に触れる方は持っていて、そういった方々の率直な感想を聞かせてもらえるのは単純に面白いことです。
そういう声を聞くことで、私たちが信仰しているのは何なのか、私たちは何者なのかが浮かび上がってくる気がしてきます。非信者の方や宗教1世の方とのコミュニケーションのおかげで、私たち宗教X世は自らのアイデンティティを再発見することがあるのです。
とにかくヤベさんの見方でこの教えを見つめると、「おぢば」のような質感で、「地点」に対する信仰を持つ教えは、宗教全般からしてもなかなか特異なもののようです。
教会の神殿はおぢばに向ける
私事ですが、最近私どもの教会も神殿普請を果たしました。決まった土地の区画はおぢばに正対しておらず、神殿をおぢばに向けるには、土地に対して角度をずらして建てる必要がありました。
こんな感じ
土地に対して建物をずらすと、当然四隅にデッドスペースができ、利用法も限られてきます。(ネギ畑にするしかない区画も出来ます)
当然礼拝場のサイズも狭まります。
しかし、ここにおいては神様に対して正対することが優先されたのです。
神殿が建ってから、道行く人にしばしば特異の目で見られました。アホな建て方やなぁと内心思われているかもしれません。一度だけ「これは何の建物ですか?どうして斜めなんですか?」と声をかけてくれた方がいましたので、おぢばという場所をお話しすることができました。
ただ、誤解を招かないよう述べますと、天理教の教会をおぢばに正対して建てることはあくまで原則であり、様々な理由でそれが叶わず、おぢばの方角と何度かズレて建てられた教会はたくさんあります。その場合は本部にその旨を報告して許しをもらいます。定められた手続きを踏めば教規上問題はありません。
現実に建物が正対しているかどうかで、その教会の信仰の濃淡が決まると心の底から信じている天理教徒はまずいないと思います。それにも関わらず、人間の都合を曲げてでも、原則にこだわるという事態がしばしば起こります。
これは、見えない信仰の内面を、どうにかして見える形にしようにする努力であり、おぢばに対する私たち天理教徒の慕い心の表出でもあります。
また、つとめて正対することで、日々祈る神殿のその先におぢばがあることを確信し、宗教的な安心を得ていると言えるかもしれません。
その行為の心はいろいろでありましょうが、とにかく、天理教の教会はおぢばあってこその存在であり、教会を一から建てるなら、やはり神殿はおぢばの方向へ。そこはひとまず無視できない原則でしょ、てな思いがあるのです。
原則があるということが何より意味があるものだと思うのです。私たちは人間なので、原理原則にピタッと合わせて生きるのは難しい。とはいえ、原理原則が歴然であるなら、それを時々思い出して、その距離を常に測れるようにしておく努力はできると感じますね。
以前に私のnoteで一見非合理なことが時として現実を動かして、それが目に見える姿として現れてくることの凄さについて書きました
今回の話としても、教会はおぢばに正対すべしという原則が、土地の効率的な利用という、人間目線では当然とるべき現実的な択を、いったん横に置かせる力を持つこと、世俗権力、資本力、合理性、それらのどれにも動かされない権威が現実に作用していく様を、見せつけられて、感嘆を覚えたのです。
神さまの向きに人間が合わせる
家族にしろ会社にしろ国家にしろ、私たち人間が生きる世界では、対立を解消して一つにまとまる時ほど強い力が出ます。ときにそれは一人の王や一部の人間に強権を渡し、強力な支配によって無理やり実現させたりします。
しかし、そこには禍根が生まれ、やがては立ち行かなくなることは歴史が証明しています。
民主的な合議や多数決はいくらかマシな結果をもたらしますが、それもまだ完全ではない。
人が互いに「おれの向きに合わせろ」と主張しあうのが世の姿なら、一人の天理教徒としては、ならばいっそ人間の誰かに合わせるのでなく、神さまの方向、原則に向くよう、お互いがそれぞれに軌道修正をすることで、結果として向きが合わさっていく。そういう生き方をささやかに推し進めていきたいところです。
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