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参拝または参詣について

当たり前かもしれませんが、私は今、生きていることに対して、神様に感謝を伝えるための行事だと考えます。

これについて、友人は「お前が幸せだから、そんな風に考えられるのだ」と言われました。

果たして、そうなのだろうか。

かつて、私の父は、肺癌が見つかり人が変わったようにタバコを吸うのを止め、余命について真剣に考えて行動していました。

そして、父の死に際を「窒息死」するまで見届けました。


つまり、人間は命の大切さを「死ぬ間際になるまで気づかない」ものなのだと感じました。

例えば、小学生の頃、交通事故で家族を亡くした人が、悲惨な交通事故を無くすために講演にやってきました。

ふと、社会を豊かにした自動車産業が、一方で交通事故で亡くなる人の犠牲によって支えられているとしたら・・・被害者も家族を無くす前は、どうだったのだろうかと、思いを巡らせました。

つまり、私達は生きているだけで、すでに罪を背負っているのだと。子供ながらに思いました。

《原罪またはkarma(業)》

時が経ち、社会人になってから塩野七生の「ローマ人の物語」を読んだ時に、カエサルもまた同じことを思い悩んでいたと感じました。

「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」

だからこそ、人間は人間を諦めずにaufhebenしなければならないのだと思います。

こうした行為は、ジョン・ダン曰く「ゆえに人を遣わして問うなかれ、誰がために鐘は鳴るやと、そは汝のために鳴るなれば」なのだと。

参拝または参詣について

私は今、生きていることに対して、神様に感謝を伝えるための行事だと考えます。


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