幸せの形「第三章004」
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病室で一日を過ごすのは憂鬱だ。
大部屋なら事情が変わるのかもしれないけど、少なくとも個室では巡回のナースさんと二言か三言しゃべる程度で、起きている時間の大半をぼんやりと過ごさなくてはならない。せめてゲームや読書ができればいいのだけど、現在の私にはそれすら重労働になっていて、体調がすこぶるいいときに母が持ってきてくれた文庫本を読み進めるくらいである。人間の身体は一度崩れ始めると脆いなあと実感した。
そんなわけで、面会時間は私にとってゴールデンタイムとなっていた。
その日の出来事を一方的に話されるだけでも楽しい。孫が遊びに来てくれたときのお婆さんみたいな気分。穏やかに緩やかに誰かの声を聞いていたい。それが両親や友人――ましてや好きな人だったら尚更いい。
「それじゃあ、お母さんは帰るね。なにか欲しい物ある? 明日か急で必要なら今日の夜にでも持って来れるけど」
「ううん、なにも」
「わかった。また明日ね」
私に明日があるのかわからない。
だけど。
あると信じなければそれこそ絶望しかない。
痛々しいほど気丈に振舞っている母を見ると弱気にはなれなかった。
「うん、また明日」
私が答えると、母は手を振りながら病室を出ていった。毎日、午前中から昼過ぎまで私の話相手をしてくれる。そのあとはクラスメイト――主に涼子と二ノ宮だけど――がいつ来てもいいように席を外していた。病室に置かれた時計は午後二時三十五分を指し示している。個室で寝たきりの生活をしていると、どんどん時間や曜日の感覚がなくなっていく。定期検査や巡回でしか計れなくなるのだ。
それはすごく寂しいことだと思う。世界に取り残されたような気分だ。
みんなはなにをしているのだろう?
クリスマスの計画を模索しているのだろうか?
気が早い子は修学旅行のことを考えているかもしれない。
涼子は。
二ノ宮は。
なにをしているんだろう?
孤独な時間が流れていく。
午後四時。この時期なら外はすっかり夕方になっているだろう。
ぼんやりと以前に見た綺麗な夕陽を思い出していた。そのときだった。
病室のドアが二回叩かれる。
巡回の時間じゃないので面会なのだろう。
「はい、どうぞ」
私は入室を許可する。
現れたのは――二ノ宮春一だった。
「あ」
とっさに私は鼻の穴に付けられている管を抜いた。酸素を送り込んでくれるありがたい装置で、付けていたほうが楽なのだけど、二ノ宮にはその姿を見られたくなかった。女の本能。好きな人の前では少しでも可愛くありたい。幸いにも髪の毛が抜けるような劇薬は投与していないので、私の容姿は顔色が死ぬほど悪いという点を除けば綺麗なままなのだ。自分で綺麗というのもどうかと思うけど。
「それ、付けてなくていいの?」
突然外したからだろう、二ノ宮は来客者用の椅子に腰を下ろしながら問いかけてくる。ときどき勘が鋭い。このいうときは鈍感でいいのにさ。
「携帯の充電器みたいなものでさ、残量がMAXの状態なら付けてる必要がないの」
嘘だけど。
「あ、そうなんだ」
あっさりと納得して二ノ宮は微笑む。バカで助かった。根掘り葉掘り聞いて来られたら墓穴を掘っていたかもしれないからね。
「あのさ」
椅子に腰かけた二ノ宮から笑顔が消えた。必然的に真剣な表情になる。
「小鳥遊さん、どうしても死んじゃうの?」
不躾な質問。本来なら禁句なのかもしれない。
だけど。
「あはは、それじゃあ、私が反対を押し切って死のうとしてるみたいじゃない」
私は笑ってしまった。可笑しくて仕方がない。
「え? え? どうな方法でも助からないのって意味だったんだけど」
慌てふためく姿まで可笑しい。
しばらく私は一人で大爆笑していた。
そして――はっきりと告げた。
「助からないよ。本当はもっと早く死ぬ状況だったみたい。だけど、大好きな両親が大切に育ててくれたから小学校を卒業できた。私のために空気のいいこの町へ引っ越してくれたから、一年と言われていた余命が倍近くまで延びたの。でもね、ここら辺が限界。これ以上望んだら切りがないよ」
淡々と語ったつもりだった。嘘偽りのない気持ちを端的に伝えるつもりだった。
それなのに、私は泣いていた。話しているうちに自然と涙が零れていた。
「わわわ、泣かないでよ」
あたふたしながら二宮はティッシュを差し出してきた。涙を拭けということなのだろう。せめてこれがポケットティッシュじゃなくて、ハンカチだったら画になっていたのにな。
「……ごめん」
私は受け取ったティッシュで涙を拭った。右手しか動かせないので、それさえ大変な作業になる。こんな姿を好きな人には見られたくなかった。
「謝ることなんてないよ。それにね、いいこと思いついちゃったんだ」
二ノ宮は悠然と人差し指を突き立てている。私は先を促した。
「なによ?」
酷い涙声になっている。それでまた泣きたくなる。我慢したけど。
「小鳥遊さんの両親がそうしたように、俺も小鳥遊さんのためになにかすればいいんだよ。そうしたら、きっと助かると思うんだ」
真性のバカだと思った。そんなことが起こるわけがない。試すまでもなく不可能というお墨付きがもらえる発言だった。
だけど。
私は。
私は嬉しくて――また泣いてしまった。どうして二ノ宮はこんなにも純粋なのだ。どうしてなにも疑おうとしない。
そんな二ノ宮を好きになった私は幸せ者だ。好きになれてよかった。最後に自分の想いを曝け出せる。本当の私を知ってもらいたい。好きになった人が死んでしまう呪いは解けたのだ。好きな人に好きと伝えられる。
今――この機を逃すわけにはいかない。
「抱き締めてほしいかも」
「かも?」
やっぱり変なところだけ鋭い。無垢な表情で二ノ宮は私を見つめている。私に意地悪したいわけではないらしい。きちんと告げるのを待っているのだ。というか、この後に及んでまだ素直になれない私のほうがどうかしている。
「抱き締めてほしい。死ぬまでに一度くらい体験しておきたいよ」
二ノ宮は。
「その相手は俺でいいのかな?」
どこまでも純粋だ。私を大切に扱ってくれる。
「二ノ宮じゃなきゃ嫌かも」
「……かも」
この世の終わりみたいな顔すんな。こっちは本当に終わるんだからさ。
息を整える。
精一杯の気持ちを乗せて。
「二ノ宮じゃなきゃ嫌なの」
私は言い直した。
「うっしゃあ!」
バカみたいに二ノ宮は飛び跳ねた。浮かれているところへ申し訳ないけど、ここは釘を刺しておいたほうがいいだろう。
「病室で大声を出さない。ナースにつまみ出されてもいいなら別だけど」
「あ、そうだったね。病院では静かにねって言われてたんだった」
改めて二ノ宮は私を抱き締められる位置に立った。私もベッドの端に寄る。相変わらず二ノ宮の顔は整っていて、よりによって私を選ばなくてもよかっただろうにと思ってしまう。私の悪い癖だ。そういう思考はもう必要ない。最後くらい自分を過大評価してもいいだろう。今の私は世界で一番お姫様なのだ。
なにも言わずに二ノ宮は私を抱き締めた。
言葉なんていらない。
そう思ったのだろうか?
バカだからなにも考えていない可能性のほうが高そうだけど。
これも私の悪い癖だ。というか、本当に性格が悪すぎるよね。今だけは素直になろう。
瞳を閉じると二ノ宮の体温が伝わってくる。
温かい。
この幸せをいつまでも味わいたかった。明日も明後日も明々後日も――一年後も五年後も十年後も五十年後も――死ぬまで。いろいろな過程を一足飛びにして、私は最期に来てしまっただけだ。
幸せ。
だけど、だからこそ今まで我慢してきた言葉が口をついてしまう。
あの日に置いてきたはずの言葉。辛くなるだけなのに言ってしまった。
「――死にたくないよ」
「うん」
子供のように泣きじゃくる私の頭を、二ノ宮は何度も何度も撫でてくれた。
大好き。
私――小鳥遊真理亜は二ノ宮春一のことが大大大好きです。
だからずっと好きでいてくださいなんて言いません。
時が経って――いつかほかの人を好きになってしまうのでしょう。私のことなんて気にしないでその人にすべての愛を注いでください。あ、嘘ついちゃいました。ときどきでいいから私のことも思い出してください。そして、その子にちょっと嫉妬されちゃってください。ぶっちゃけ、その子と別れてください。やっぱり私だけを好きでいてください。
……なにを考えているんだろう私は。
でもこれが現実。
結局、人間は自分自身が一番大切なのだ。自分というファクターを通してしか物事を計ることができない。死を目前にした私でさえ、大好きな人を一番に考えられない。そんな自分が情けない。
だけど。
素直になることができる。優しくなることができる。正直になることができる。
「ついでに、キスとかしちゃってくれないかな?」
二ノ宮はたじろいだ。そりゃそうだろう。彼は近々死ぬ予定なんてないんだろうし、いろいろなことを順序立ててやりたいのかもしれない。だけど私はそうもいかない。それに今の私は世の中で一番自分の欲望に正直な人間と化している。
「キスしてくれないと五分後に吐血しそうなんだけど」
だから卑怯な方法も平気で用いるんです。手段とか選んでる余裕はありません。
「そそそそそれは困るよ」
あたふたする二ノ宮。私は追い討ちをかけた。
「だったらキスしてほしい」
瞳を閉じて顔をあげる。こういう捨て身の作戦とかも使っちゃうんです。
これでダメだったら諦めよう。
しばしの沈黙。
逡巡しているのだろう。
だけど。
なにかが唇に触れる――と同時に抱き締められた。
二ノ宮春一は私にキスしてくれました。
ぎこちないけど柔らかいキスでした。
幸せ。
このまま時間が止まればいいのにと生まれて初めて思った。
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