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幸せの形「第三章003」

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 翌朝、私は当初の約束通り入院した。

 文化祭を通じて仲良くなったクラスメイトが見舞いに来てくれた。一時的な入院だと思っているらしく、どうでもいいような会話ばかりになってしまった。でもそれが楽しい。楽観的なのは涼子や二ノ宮も同じだった。誰も私がいなくなるなんて想像もつかないのだろう。当然のことだ。漠然と明日はやって来るものだと信じている。

 淡々と日々は流れて一週間が経過した。
 ある夜、容体が急変した。

 ◇◇◇

 今週末が峠かもしれない。

 面と向かって宣告されたわけではない。だけど、おそらくそうなのだろう。私自身、もう長くないことは理解している。固形物を口にすることもできないのだ。点滴や薬によって私の生命は維持されている。一人で歩き回ることもできない。人間と定義できるぎりぎりの場所で踏み止まっている感じだ。なにか一つでも失ったら終わりを迎えそうな危うい状況。

 母は私の前では泣かなかった。だから私も泣かないようにした。
 きっと――私が泣いたら母を苦しめることになる。お父さんを好きになって、付き合うことになって、紆余曲折を乗り越えて結婚して、大変な痛みを伴って私を産んでくれた母の人生を――娘の死なんていう救いようのないバッドエンドにしたくない。

 だけど。
 私には抗う術もない。その結末を変えることはできない。ならば――せめて母の前では笑顔でいよう。決して弱気になんかならない。それが今の私にできる精一杯。ハッピーエンドにしたいんだ。それが無理でもバッドエンドのあとにコンティニューくらい用意してあげたい。残りの人生をバッドエンドのエンドロールをずっと見続けるような状況にしたくなかった。そんな最悪の事態だけはどうしても避けたい。

 時刻は午前十一時半。
 母はベッドの傍らにあるパイス椅子に腰を下ろしていた。私は完全に横になった状態で母を見つめている。

「お母さん」
「ん、どうしたの?」

 母の手にはマスカット味のゼリー状栄養補給なんちゃらが用意されている。固形物が喉を通らない私のお昼ご飯だ。ちなみに、マスカット味は嫌いじゃない。

「アップル味のほうがよかった?」
「ううん、そうじゃないの」

 一拍置いて話を続ける。

「どうしてお母さんは延命治療を選ばなかったの?」

 長い長い沈黙。

「真理亜は後悔してるの?」

 優しい声音で母はそれだけ言った。たった一言が重い。きっと誤った選択をしてしまったんじゃないかと何度も悩んだのだろう。何度も何度も苦悩して、さらに考えに考えた末の結論なのだ。覚悟を決めているのは私だけじゃない。

「ううん」

 私は静かに首を横に振った。
 本当の気持ち。
 後悔はしていない。

「そう」

 死にゆく娘を前に母はなにを思っているのだろう。私は死を迎えることで決着がつく。だけど残される立場の母にはこれから始まるだ。あの日に訴えていた絶望しかない世界が――そこから抜け出すことはできるのだろうか?

「お母さん、覚えてるかな?」
「なにを?」
「お父さんとの出会いを話してくれたときさ、お母さん、私に謝ったでしょう?」
「そうだっけ? んー、でもそうかもしれないね」

 母は曖昧に笑った。

「あのときはちゃんと言えなかったんだけど、私は生まれてきてよかったと思ってる。産んでもらったことを感謝してる。これでよかったって言うと嘘になるけど、それでも短い人生に不思議と後悔はないんだよ。だから――その……つまり……なんて言うか……」

 私の死を不幸として背負い込まないでください。

「うん。そういうことにする」

 穏やかな声だった。
 国語のテストだったら赤点かもしれない。前後の文章で意味が通じていないのだから。だけど母には通じたのかもしれない。多くを語らないのは、たぶん、泣いてしまうからだ。

 昼食後、しばらくして母は家に戻った。
 病室のドアが叩かれる。

「どうぞ」

 返事を機に病室へ入ってきたのは涼子だった。お見舞いだろうか手には籠盛りされた果物を持っている。私が二度と着ることのできないであろう制服姿だった。

「……真理亜……」

 ドアを開いたまま涼子は奥へ進むのを躊躇しているようだった。

「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」

 おずおずと涼子は歩を進める。私は苦笑した。

「涼子。病人はね、周囲の人の様子で自分の容体を判断するんだよ」
「……ごめん」

 それでも明るく振舞えないようだった。無理もない。

 現在の私は生命を維持するための装置に繋がれて生かされている。身体のあちこちに管が通っているのだ。ここまで来たらあとは早いか遅いかの問題でしかない。回復の見込みを語るほうがおかしい。そんな状況を目の当たりにして平常心を保つのは困難だ。

 涼子は古ぼけた棚の上に果物の籠を置いて、ベッド脇に用意されているパイプ椅子に腰を下ろした。今にも泣き出しそうな――というか、泣き出しました。

「いきなり泣かないでよ、どっちかっていうと私のほうが泣きたいんだからさ」
「……ごめん……ごめん……だけど止まらないよ」

 なんか『め』とか『ま』に濁点が入ったような発音で謝られた。嗚咽を交えながら涼子は号泣している。それでも切れ切れになりながら言葉を絞り出した。

「……寂しいよ……」

 私だって寂しい。
 だけど。
 もうどうにもならない。

 なんとか涼子を落ち着かせようと、私は唯一自由に動かせる右手で彼女の髪を撫でた。これではどちらが患者かわかったものじゃない。

「……私……真理亜がいなくなったらどうしていいかわからない」
「大げさだよ。涼子は私と出会う前からちゃんとやれてたんだから、私がいなくなってもちゃんとやっていくだけだよ」

 ぐちゃぐちゃになるまで涼子は泣いていた。だから気づいてしまう。彼女は最後の別れを告げに来たのだ。一人で見舞いに来たのは、きっとそういうことなのだろう。

 しばらくして、涼子は静かに切り出した。

「私はね、最低の人間なんだ」
「ん?」

 意味がわからない。

「私は真理亜が嫌いだった。突然現れて、ずっと好きだった二ノ宮くんの心をあっさりつかんで――本当にね、心の底から憎かったんだ。こんな奴いなくなっちゃえばいいのにって、ずっとずっと心のどこかで思っていたんだよ」

 それは激白だった。私の知らなかった真実の涼子。気持ちがいいくらい正直で一途な彼女が隠していた本心――どうして今になって打ち明けたのだろうか?

 否、答えは単純明快だ。私に隠し事をしたくなかったのだろう。
 一呼吸する。

「私は涼子のことを最低だなんて思わない。だってそうでしょ? わがままで傲慢で自分が一番大切――それは人間の奥底にある本音だと思うもの。せめて自分の気持ちに正直であれば、あとのことは大目にみてあげるべきなのよ」
「……真理亜はすごいね」

 涼子は涙を拭きながら言葉を紡いだ。
 私がすごい?
 それは違うと思うな。すごいのは涼子のほうだ。真っ直ぐで純粋で自分と向き合っている。私なんてこの期に及んで正直になれないのだ。決して傷つかないところで待っているだけ。ううん、逃げているだけかもしれない。

「私もね、実は隠していたことがあるんだよ」
「うん?」

 涼子が顔をあげた。涙で――ぐしゃぐしゃになっている。目が赤くて腫れぼったい。今なら私のほうが可愛いかもしれない。

 なんてね。
 頭の中で整理しながら私は語る。

「私には好きになった人が死んでしまう呪いがかけられていたの。だから誰も好きにならないって決めてた。でもそれってすごく寂しいことだと思わない?」
「うん」

 バカげた話なのに、涼子は疑いもせずに耳を傾けてくれる。

「だけど死を目前にして呪いが解けた。私は人を好きになることを許された。誰かを思いながら死ぬことを許された。これってとても素敵なことだと思わない?」
「うん」
「最期に奇跡が起きたんだよ。ずっと不可能だと思っていた願いが叶った。だから――」

 勢いよく涼子は立ち上がった。その反動で椅子が倒れて大きな音を立てる。

「私はそんなの嫌だ!」

 涼子は。

「生きていてほしい」

 まるで恋人にでも告げるかのように言うのだ。

「ありがとう。涼子と友達になれてよかった」

 募る想いをその一言に凝縮した。だってこれ以上話したら泣いてしまいそうだから。それからいつもの他愛ない会話に花を咲かせた。
 最後になるかもしれない――他愛ない会話を。
 話の最後。

「いつか二ノ宮くんを振り向かせてみせるから」

 凛とした表情で涼子は宣言した。彼女にも彼女の物語があるのだ。その中で私はどのように扱われているのだろうか? 恋敵として罵詈雑言を浴びせられているのだろうか? タイトルは「大好きな彼が振り向いてくれない」でジャンルは――ってなにをやってるんだろうね。それは涼子の物語で、私が思考する必要はないのだ。

 それぞれの人生の語り手は本人に委ねるしかない。
 涼子が帰ると病室は静寂に包まれた。

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