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極めるシンドローム

 私はなにかと人の影響を受けやすい。すぐにその気になって、流されてしまう。
 例えば、テレビで何か美味しそうな食べ物が特集されていたり、誰かに「このお店が美味しいよ」と聞いたりすると、すぐに食べたくなる。
 行ける距離の店なら行ってみたくなり、行けないのであれば別の店やスーパーなどの総菜でも構わない。どうにかして、わりと近日中にその食べ物を食べている。私にとって『孤独のグルメ』ほど危険な番組は他にない。
 会議などでも、誰かがもっともらしい意見を言えば、それはその通りだ、と思ってその方向性を検討するし、批判されれば、反発するよりも、もしかしたらそのような見方もあるのかもしれない……とすぐに弱気になる。
 だが、私にとって、ゲームはRPGが至上である。その点だけは、揺るがない。
「RPGは何が面白いの? 何回も同じ敵が出てきて、たたかうたたかうしてるだけじゃん」
 という意見を昔知人からいただいたことがあり、一瞬「なるほど」と思ってしまったものの、いや、同じ敵をなんどもたたかうたたかうするのも面白いんだと思えた時には、自分はやっぱりRPGがどうしようもなく好きなのだと再認識することができ、少し嬉しくもなった。

 それもまた、元々は人の影響である。
 幼い頃によく遊んでもらった近所に住む年上の友人二名が、私のゲームの師匠だった。その二人は兄弟で、兄の方は私より四つ年上で、弟の方は私の二つ上である。
 二人とは色々なゲームをして遊んだが、その兄弟がとりわけ好んだのが、RPGだった。そもそもRPGは一人用なので私はほとんど見ているだけだったが、それでも十分に楽しかった。
『ドラクエ』、『ファイナルファンタジー(以下FF)』、『テイルズ』など、数々の名作RPGが生まれた時代である。私が憧れ、傾倒していくのは必然だった。

 ある日、上の兄ちゃんが『FFⅥ』をプレイしているのを見ていた時、奇妙な行動をしていることに気が付いた。
 なぜか、同じ装備をいくつも店で購入している。武器や防具、アクセサリなど、十個以上買っている。最初の町の弱い装備も含めて、全てだ。
「それ何してんの?」
 と私が聞くと、兄ちゃんは少し照れくさそうに言った。
「装備できる仲間の数だけ揃えてるんだよ。武器は二刀流ができるから二倍だね」
 そう聞いても私はよくわからず、適当に「ああ……」と答えていた。
 だが、彼がぽつりと「極めるんだ」と呟いた時、私は衝撃を受けた。
 当時小学生だった私の中には存在しない概念である。滅茶苦茶カッコイイと思った。
 FFⅥにおける「極める」の内容は分かっていなかったが、究極までやり込むつもりなのだと理解することはできた。
 私は例によって影響を受け、自分も極めたいと思うようになる。
 だが、実際にやってみるとその困難さを痛感し、様々な妥協と言い訳を経て、最終的なクリアデータはとても「極めた」と呼べるものではなく、ただ単に装備品の数が揃っているだけ、だった。FFⅥをプレイしたことがある方なら、そう言えばわかってもらえるだろう。

 そのことは、ほろ苦い記憶として、今でも私の中に残っている。そう言えば、兄ちゃんは無事に「極める」ことができたのだろうか。私が中学に上がって少しずつ疎遠になってしまったので、確認できていないのだ。
 その記憶は度々甦り、苦みとともに、強烈な懐かしさを覚える。実際に何度かFFⅥをプレイしてみたことがあったが、どうしても「極めなければならない」というある種の強迫観念にとらわれ、今一つ楽しめずに、序盤でやめてしまう。それを何度か繰り返し、もういい加減諦めようと思っていた。
 だが、一年ほど前にSwitchとPS4でピクセルリマスターの配信が開始され、密かに心惹かれている。情報を見ていると、極めることがかなり容易になっているような気がするのだ。
 しかし、それもまた妥協であるように思われ、未だ手を出せずにいる。

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