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noteデビュー ご挨拶ですm(__)m

 そもそも、私の人生ってB型肝炎のキャリアであることが医学部の2年生に献血で分かって、それ以来、普通の医者じゃない人生を選択せざるを得ませんでした。

 大学卒業後は、臨床医にはならず、病理学教室の大学院に進学したのですが、その年の夏にB型肝炎が慢性肝炎の急性増悪(トランスアミナーゼが800代に達しました)しました。それでも家族を養う必要があったので、4年後、大学院を中退し健診機関に就職しました。
 まともな指導医もいない状況で、毎日移動健診をする日々を送りました。

 トランスアミナーゼが100から300を前後する日々が続き、その後に分かるのですが、常に疲れていました。この時点で、医者としてのキャリアは終わっていて「成長」は望める状態ではありませんでした。

 しかし、医師免許があれば、夜寝ているだけでお金がもらえるアルバイトがあり、土日に献血ルームに行けばほぼ座っているだけでお金になるという生活が出来ます。いつか肝炎で死ぬまでは家族のために少しでもお金を残しておこうと思っていました。
 現に、私の先輩のB型肝炎のキャリアの医師でお亡くなりになった方もいます。(そうそう、人のウワサは恐ろしいもので、この先輩の死が、私の死と間違えられて伝わり、同窓会で「死んだんじゃなかったの?」とびっくりされたこともあります)

 産業医を始めたのが1994年。健診機関の医師として始めました。誰からも何も教わりませんでした。営業が取ってきたペーパー産業医も多く、知らないうちに産業医になっていた事件が多発し、職場に不信感が募ってきたのも事実です。その後、1996年に労働衛生コンサルタントの試験に合格したのと、B型肝炎のe抗体が出来て、慢性増悪が治まったようなので「まともな医者のキャリアを築かなければ」と思いました。(この時に、身体が軽いと感じて、慢性肝炎の時ってやっぱり慢性的に疲労感があったと実感しました)

 それで当時、まだ誰もやっていない独立して産業医をおこなう事務所を立ち上げてました。「労働衛生コンサルタント事務所プライム」の始まりです。

 背景としては、この年に労働安全衛生法が改正されて、産業医に資格要件が出来ました。医師免許だけでは産業医は出来ないということで、産業医の需要が高まりそうだということと、もうひとつは行政、つまり労働基準監督署からの有形無形の支援がありました。衛生管理者の研修会に講師として呼ばれ、その後に産業医の依頼があったり、産業医を専任していない企業に勧めていただいたという経緯もあったようです。

 しかし、それだけでは生活は出来ませんでしたので、3年ほど小松市の健診をやっていた病院で非正規雇用で週に3日ほど仕事をさせていただきました。これで、生活が安定し、契約企業も増えて着実に実質的に独立することが出来ました。
 内緒の話ですが、独立してすぐにコンタクトレンズクリニックのアルバイトの話があって、今でも続けています。

 さて、私には二人の娘がいるのですが、その娘達が大学に進学する時に不安神経症傾向が強い家内から「金がない」と言われ、「んじゃ、出稼ぎするべ」ということで、京都と東京に営業をかけ進出し、一時は訪問先が東京、千葉、栃木、富山、石川、福井、愛知、岐阜、滋賀、京都と拡大しました。

 この間、訪問先の企業が個人事務所の産業医には税金を徴収する必要があると税務調査で指摘されたということがあり、個人事務所から株式会社に変更しました。しかし、これって税務署が「個人で産業医をする医者がいる」ということが理解できていないから起こる現象で、税務調査に入ったけど思った程脱税を摘発できないときに使っている「手」みたいです。
 源泉徴収されると何が問題かというと、事務所で経費が使えなくなるんじゃないかという問題が生じます。

 産業医を長いことやっていますが、私の場合は契約企業から重宝がられるのは
   1. 産業医としてだけの指摘ではなく、他社事例も含めて広い
     分野で指摘してもらえる。
   2. メンタルの問題の解決が早くできる。
   3. 健康診断の結果を分かりやすくまとめ、改善状況が把握できる。
ということらしいです。

 私の産業医としての基本的な考えは、産業保健の分野で野球に例えると正面のゴロを確実に処理できる企業、送りバントをしっかりと決められる企業に契約企業になっていただくことです。

 私も2021年の9月に60歳となりました。3年前から仕事を徐々に減らして、時間的に余裕を持つことにしました。しかし、多くの人に必要な産業保健の分野のノウハウや大切な考え方をお伝えしたい感情はまだ残っています。このnoteでは、私のこれまでの産業医としてのノウハウをお伝えするつもりです。


 


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