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うまく書けなくても、いい。 

 ある男が私に語ったこと。

 「いやあ、書きたいんですけどね。こんなに書きたい気持ちはあるのに、書き始めるとすべてが嘘みたいに見えるんです。いや、嘘ですよ。嘘に見えるならならまだいいですよ。僕が書かれる言葉はでたらめで、文字になってしまうと信じられないくらい安っぽくて、どこにでもあるような文章になってしまうんですよ。そうしてかいていると、しだいに、こんな文章は書いていても意味がない。そう思い出して、そうやって、キーボードのdelキーを押すんです。そうすることで、目の前の文章は消えて、なかったことにできるんです。そうすると気持ちがいいですよ。何もない文章の向こう側には、綺麗に整えられた文章があるように思うんですから。でも書いてみると、また、どうしようもない文章なんですよ。」

 どうやら、読むことと書くことは違う能力であるようだ。彼は読むことに多くの時間を割く。本を読むことは、この世界では偉いことである、多くの人が本を読む。本を読もうとして読めなくなっているぐらいだ。それをここでは積読と読んでいる。読むための行為はいくつも生まれている。読書法というやつである。速読。遅読。マーキング読書。いろいろ。いろいろな工夫を凝らして、この世界では本を読もうとしている。
 けれど、書くこととなっては、てんで違うようである。書き始めると、全く書けないのである。男はパソコンの前で、何時間も書いては消し、書いては消していく。読むように書くことはできない。あらかじめ、書かれてあるものを読むように、新しい文章を書くことは。最初からそれをできる人もいるのだろうけれど、少なくとも彼はそういう人間ではない。
 彼は書きながら、書いた文章を読む。そうすると、おなじみの批評家のような悪魔が彼の前にしゃしゃり出て、彼に向かっていうのである。
 「お前の文章は価値がない」
 そうして彼は書くことをやめてしまう。

 批評家のような悪魔を黙らせない限り、彼は書き進めることはできなかっただろう。そして彼は知るべきだったのだ。書くことと読むことは違うということを。そして、次の言葉を机の上に貼って、見返すべきだったのである。

 「うまく書けなくても、いい。」

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