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イエス・キリストの福音 ①


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わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。
「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。あなたは、わたしの右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、それらの秘められた意味はこうだ。七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である。
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さて、またぞろ聖書の最終章たる『ヨハネの黙示録』について書くものであるが、このヨハネのというよりかは「イエス・キリストの黙示」と銘打つべき預言書とは、上のようにして、七つの教会の天使へ向けて神からのメッセージが書き送られていく場面より幕を開けていく。

そして、先の『復讐の預言、励ましの預言』においてもはっきりと書いたことであるが、イエス・キリストの黙示(聖書)とは、憐れみの器と怒りの器とを、良い麦と毒麦とを、神の子と滅びの子とを、永久に選り分けるための「ふるい」であって、

その黙示の中に込められた福音に気がつかない、目も節穴であれば聞く耳も持たない輩など、たとえこの世界を支配するような大資本家であれ、大政治家であれ、大実力者であれ、大芸術家であれ、大宗教家であれ、大慈善家であれ、大…なんであれ、その行きつく先は、たった一つぎりしか用意されていない。

であるからして、七つの天使のいる教会とか、”霊”が言葉を告げる諸教会とか、そのような「教会」なるものとは、可視ではなく不可視の、巷にそびえ立ったものではなく人の心の中にこそ幕屋の張られた、この地上におけるいかなる宗教的結社集会共同体のことではなく、ただただ”霊”が宿るがゆえにこそ真の、自由の、永遠の教会のことを示唆しているのである。

私は今、「人の心に幕屋を張った」という言い方をした。これはまさに、『喜びの神殿』において書いたように、「心の再建」のことを指し示している。

すなわち、かつてユダとイスラエルの人々を捕囚と奴隷の身分から解放しようとして、「(可視の)神殿再建」の号令をかけた神の本意とは、積年の抑圧と貧苦にすっかりいじけきって、石のようにかたくなになってしまった民の心の、その回復にこそあった――

たとえばこのような視点をば、いつもいつも言っているように、「自分の人生における実体験」として持っていない者など、ここで語られる「教会」のなんたるかについても分からなければ、これから書き表そうという「差し迫った啓示」をも、けっして聞き取ることができはしない。

すなわち、イエス・キリストの黙示――くだけにくだけた言い方をするならば、「救い」に与かるための、「自分にいま何が必要で、何が足りていないのか」が分からず、はっきり見出せず、それゆえに、この文章の目的であるところの「自分の命を救うための実際的行動」に打って出ることまで、できずにしまうというのである。

だから、皆まで言うにも及ばないが、そういう人間は、いつの時代の、だれであっても、ただひたぶるに滅びゆくばかりなのである。


そこで、そんな、ある種の人にとっては裁きであり、またある種の人にとっては福音であるところのイエス・キリストの黙示について、七つの天使たちと、七つの教会とへ書き送られた神の言葉とは、いったいなんであったのだろうか――。

まず、エフェソの教会へ送られたそれは、以下のようなものであった。

「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。」

しかし、

「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。 だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」

このような神の言葉とは、まさにまさしく、今の、この時代の、この私の身と、心と、霊と、人生に向かって語りかけられた言葉である。

すなわち、もう幾度くり返したことか知れないが、私はこの世のユダヤ教キリスト教の世界にたむろす詐欺師と人殺しどもに我慢できず、自ら使徒(あるいは祭司長老宣教師神父牧師信徒教徒神の僕だのと)と称して、実はそうでない者どもの吐き続ける”真っ赤なうそ”の数々を見抜き、暴き出した。

またそして、「しかしあなたは始めの頃の愛から離れてしまったので、立ち帰れ」という言葉にも聞き従って、そんな自分の始まりとはいったいどこにあったか、どのようにして、神から直(じか)に語りかけられ、神を想い、慕い、探し求めるようになったのかという原点と、その経緯とを温ねた。それをもっとも端的に綴ったものが、『アダムとイエス』という文章である。

その中で、私は「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」という言葉を、いかにして自分の人生において実際に経験したかを、言い表してみせた。

それゆえに、同じ私はもはやどこへ行って何をしていようとも、その結果、まかり間違って「はじめの愛から離れて」しまうような望ましくない状態に陥ってしまったとしても、かならずやまた、初めの頃の行いに立ち戻ることができる。

それは実に、自分という存在がどのようにして「造られて」、どのようにして「命の息をふき入れられて」、その結果、「生きる者」となったかを、自分の身をもって思い出し、ふたたびもって、この身においてやり直すことができるからである。


であるからして、

たとえば、次のサルディスの教会に送られた神の言葉、「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」というものも、はたしてどういう状態のことを指して言っているか、とてもよく分かるのである。

それはまた、過去において自分がどのように生きていて、生きていたようでいて実は死んでいたのかを、きちんと把握し、記憶し、自らあらためて、あらためたからこそ、「今日という日を永遠に生きるように生きている」からである。

これが、たとえば『わたしは主である』に描いたイエス・キリストの憐れみの山の光景であり、あるいは、『ギブオンの夢枕』に綴った半生の回顧であり、そこから、罪を赦されて立ち上がり、新しい旅路を歩き出した、『キリストの子』の新たな始点へというふうに繋がっていくのである。

だから私は、これからどんな出来事が――良きにつけ悪しきにつけ――この身の上に訪れたとしても、けっして恐れることがないのである。


これと同様に、ラオディキアの教会へ送られた神の言葉についても、私は誠心誠意、全身全霊をもって応えて来た。

「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」

「そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。

私はかつて自分がいかに「なまぬるい存在」であったか、この身をもって知っている。それが、自戒と悔恨の念をも込めてしたためた、『冷たいからだ』といった文章である。かつて、熱くもなければ冷たくもなかったところの人間社会において、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」と言っていた、なまぬるい私は死んだ。

死んだとは、「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者である」ということをば、自分の生身の実体験として思い知らされたということである。

そのような「死」から、私は立ちあがった――復活した。

そればかりか、日々、死んで、日々、復活をくり返している――ただただ、キリスト・イエスを死者の中から復活させたものとまったく同じ憐れみ、憐れみ、憐れみによって。

それゆえに、今の私とは、たとえ苦難や貧しさの中にあっても「イエスと共に食事を楽しんでいる」のであり、「死にかかっているようで生きており、罰せられているようで殺されておらず、 悲しんでいるようで常に喜び、貧しいようで多くの人を富ませ、無一物のようですべてのものを所有している」のである。


その証拠として、フィラデルフィアの教会へ送られた神の言葉によって、私は神御手ずからかぶりを撫でられるようにして、大いに誉められ、また大いに励まされているという真実を告げられる。

すなわち、「あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった」と。

また、「見よ、サタンの集いに属して、自分はユダヤ人であると言う者たちには、こうしよう。実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ。見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし、わたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう」と。

さらには、「あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい」というふうに。

このような、まるで親が子を認め、誉め、さらに励まし、いっそう力づけるような言葉とは、次のスミルナの教会へ送られた神の言葉にあっても、まったく同じである。

いわく、「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。自分はユダヤ人であると言う者どもが、あなたを非難していることを、わたしは知っている。実は、彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集いに属している者どもである」

だからこそ、

あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」、と。

このようにして、私は悟るのである――すなわち、私の身も心も霊も大いに憐れまれ、人生それ自体も大いに慈しまれる、「今日という日」が永遠に続いていくということを。

なぜとならば、これら神の言葉はすべてなべておしなべて、私のため、なかんずく『偽りのユダヤ人たち』や『イエス・キリストの黙示』やを書いた私のためにこそ、神が私が生まれる何千年も前にあって、あらかじめ用意していた称美の預言であり、

これからも、『ソドムとゴモラ』や『喜びの神殿』や『ヨハネの洗礼、キリストの洗礼』や『神の義』のような、だれよりも美しく、まただれよりも力強い文章を書き続けるようにとはっぱをかけるための、激励の預言でもあるからだ。


それゆえに、ティアティラの教会へ送られた神の言葉を聞くときには、

「わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。更に、あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっていることも知っている。 

というように、私の信仰と行いとは、日々、神の目から見られ、日々、神の心に覚えられ、かつ、多とされていることを語り聞かされる――まさに自らの信仰を疑い、その行いの結果に失望せざるを得ないような、絶望の闇夜にあって。

のみならず、

「しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている。 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女はみだらな行いを悔い改めようとしない。見よ、わたしはこの女を床に伏せさせよう。この女と共にみだらなことをする者たちも、その行いを悔い改めないなら、ひどい苦しみに遭わせよう。また、この女の子供たちも打ち殺そう。こうして、全教会は、わたしが人の思いや判断を見通す者だということを悟るようになる。わたしは、あなたがたが行ったことに応じて、一人一人に報いよう。 ティアティラの人たちの中にいて、この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる奥深い秘密を知らないあなたがたに言う。わたしは、あなたがたに別の重荷を負わせない。ただ、わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ。」

というように、うなだれた頭をもたげ、かがめた腰に帯を締め直すようにと、笞と杖によって慰められる。慰められればこそ、『アカンに割礼はあったか』でも『ユダの神の人とベテルの老預言者』でも『子よ、あなたの罪は赦される』でも、揺るぎなき岩(確信)の上に立って、叫びあげることができたのである。


だからこそ、ペルガモンの教会にも送られた神の言葉、

「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかし、あなたはわたしの名をしっかり守って、わたしの忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたがたの所で殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。」

というふうに、『憐れみの器』や『友よ、我が霊とともに』や『幻を書き記せ』や『世の光、異邦人の光』という思いを、神へ向かってほとばしらせた私の祈りは、ただの一度たりとも、神の御前に空しいものであったというためしはないのである。

そして、

「あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる。…同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉ずる者たちがいる。だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう

というふうに、イゼベルの惑わしにも、バラムの企みにも、ニコライ派の嘘にもけっして謀られることなく、そのようにして、サタンの王座に抗い、サタンの住むところで友が殺されてもなお、最後の最後まで、イエス・キリストの名によって戦い続けることができるようにと、

イエス・キリストの差し迫った黙示を告げ知らされる――

すなわち、「神はかならず助け、復讐する」というキリスト・イエスの福音を――なんども、なんども、なんどでも、くり返しくり返し、くり返しくり返し、この身の上にもたらされるのである。



つづく・・・



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