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キリストの子 ①


――
荒れ野から上って来るおとめは誰か
恋人の腕に寄りかかって。
――

――
ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。 そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」
――


上は、聖書の中に見出される、二つの「女の姿」である。

いちいち解説を加えるまでもない。文字の通りに読んだだけで、それぞれどんな姿をしているものか、おのずと脳裏に浮かんで来ることであろう。

一見、なんの関わり合いもないように見えるこれら「女の姿」であるが、どうしてどうして、そのいずれについても、今この瞬間における私の姿そのものであると言うことができるのである。


どういう意味か――。

単純な話である。

先に結論から述べてしまうなら、私は、まさにまさしく今この時こそが、わたしの神イエス・キリストと、もっとも距離の近しい間柄にある時であるという、そのような話をしてみたいばかりなのである。

すなわち、

恋人(イエス)の腕に寄りかかりながら、荒野から上って来るおとめの姿とは、今この瞬間における私であり、

同じように、

神の御前において心を注ぎ出すようにして激しく泣いている、子を産めない女の姿もまた、今この時にあっての私の人生の様相にほかならないのである。


それもどういう意味だろうか。

片や、恋人の腕に寄りかかって荒野から出て来ているわけだから、さも嬉しそうな、幸せそうな微笑みのひとつでも湛えたかんばせをしていたとしても、少しもおかしな話ではない。

そんなおとめの白い歯と、悩み嘆いて激しく泣いている胎を閉ざされた女のそぼ濡れた頬と、ほんとうに相通ずると言うのだろうか。

が、ここで少しうがった見方をしてみるならば、「荒野」から上って来たおとめが、当然のごとく「笑っている」だなどと、いったい誰が断言し得るだろうか。

こと「荒野」とは、聖書の中においてはことさらに意義深い場所であり、信仰によって述べるのならば、そこは神が人を試みる場所にほかならずして、よって、場合によっては人はそこで命までをも落としかねない「苦悩の谷」であり、それゆえに「死の陰の谷」という名さえ付いた舞台でもあるのである。

そんなところから「上がって来るおとめ」が、いかに「恋人の腕に寄りかかって」いたからと言って、天然自然の理として恋の喜びに酔い痴れ、笑っているばかりだとは、にわかには信じられないものである。

あるいはどうして、身も心もぼろぼろになったために、半死半生といった体(てい)で、それゆえに「悩み嘆いて、激しく泣いて」いたとしても、これもまたあり得てうべなる話ではなかろうか。


がしかし、私は常々、信仰によって文字(聖書)を読み、それ以上に、”霊”によって人生という聖書を生きている人間としてはっきりと言うものである、

この「荒野」から上って来るおとめとは、たしかに「笑っている」。

恋人、すなわち、神の腕に寄りかかりつつ、今の今まで「死の荒野」にあってその身をもって体験し、経験し尽くしたあらゆる出来事を思い起しながら、それらひとつひとつを神へ向かって語り聞かせている――そのようにして、「荒野の日々は血を吐くほどに苦しかったが、ほんとうに楽しかった」というような言葉を、のべつ喋りつづけているはずである。

どうしてそんなことが分かるのか。

それはとりもなおさず、今この瞬間の私が、そのように、わたしの神イエス・キリストに対して語っているからである。

すなわち、これまでにももうなんどとなく、私は私の人生の「荒野」について書き続けて来た――それをここでまたぞろくり返すようなつもりはいっさいないが――そんなすべてが、「イエスに向かって喋りつづける」私の姿だったからである。

それゆえに、まるで生きるに値しない、いや、生きるよりも死んだ方がましだとしか思えなかった「荒野の日々」とは、それゆえにそれゆえに、私にとって「ほんとうに楽しかった日々」でもあるものと、信仰によってここではっきりと書き記しておきたい。

またそれゆえに、「恋人の腕に寄りかかって、荒野から上って来るおとめ」とは、可視の姿こそずたずたの荒布を身にまとい、足取りもおぼつかず、気息奄々として、今にも息絶えてしまいそうな体たらくであったとしても、

不可視の心は生き生きと力みなぎっており、瞳はまるで生まれたばかりの月のような輝きを放ちつつ、恋人の顔を仰ぎ見ながら嬉しそうに、楽しそうに、幸せそうに、たえまなく喋りつづけているのである。

このような信仰による啓示こそが、「雅歌」の中でももっとも美しい箇所であって、「雅歌」が単なる身を焦がすような恋の詩歌にとどまらず、また身を焼き尽くすような愛の詩文をさらに超えた、よりいっそうの深み――すなわち永遠の魅力――を保ち続ける秘密でもあるのである。


では、最初の問いかけに戻るものだが、そんな死の陰の谷から生還して来たおとめの微笑みが、子を産めない女の哀哭と、いかにして互いに相通じ合うというのであろうか。

いつもいつも言っていることだが、このような疑問をもしも持った時、ただたんに可視の部分へだけ目を注ぎつづけるばかりでは、けっして自他を納得させ得るような回答にまでたどり着くことはできはしない。

可視ではなく、不可視のものこそが、いつもいつでも神が見つめる対象であり、本質であり、真実であるからである。

それゆえに、「荒野から上がって来るおとめ」にせよ、「激しく泣いているハンナ」にせよ、彼らの白い歯だの、そぼ濡れた肌だのといった目に映る部分にばかり捉われている限りは、彼らの「心の形」までは永遠に捉えることあたわず、

もっと正確に言えば、彼らおのおのの心の形が、とてもよく「似通っている」という真実にまで、たどり着くことができずにしまうのである。


…イエスの右腕につかまりながら、辛く、長かった荒野の旅を終えた私は、ずっと喋っていた。

荒野での出来事を語り終えてもなお、他愛もない、とりとめもない、オチもないような話をくり返しながら、時々、これから先の計画を、たったいま胸に沸き起こった想像のように、あるいは、ずっと記憶し続けてきた未来のようにイエスに語って聞かせた。

時おりおぼつかない、老いさらばえたような私の歩みをしっかり支えるようにしながら、何も言わず、ただじっと私の話に耳を傾けているイエスに向かって、私は言った。

「だから、これから先のわたしは・・・」

イエスはそう言い終えた私の顔を見て、ふっと笑った。

その顔を見て、私は津波のような動悸に襲われた。そして、生まれてはじめて心躍らせながら教会を訪れたあの頃から、生まれてはじめて胸をわくわくさせながら聖書の表紙を開いたあの日から、生まれてはじめて瞳を輝かせながら読みふけった東西の古典の中にイエス・キリストの名を見出したあの瞬間から――

いや、いつのころか知らないが、きっとはじめて出会った瞬間のはるかな以前から、ずっとずっと心に抱きつづけてきたわたしの神イエス・キリストへの「想い」というやつを言葉にするならば、

「今がその時である」というふうに思い及んだのである。

だから――私は笑った。

失われた故郷も、愛する人も、無二の友も、荒野の苦しみも――過ぎ去ったひとつひとつの思い出が、いまはただ、私とイエスの生還(復活)を、そして、これから来るべきふたりの未来を、祝福してくれているように思われた。

だから笑った。
はじめて草花を見つめた子どものように、すべてが佳美しかった。
イエスも一緒に笑った。

かつてイエスが私の心の中を、私がイエスの心を中を、訪ね、一緒に歩いたあの時も、ふたつの心と心とはひしと抱き合い、溶け合って、ひとつになって流れていったように、

笑いながら、私たちはそろって、その時の気持ちを思い出して、その時とまったく同じような、むしろ、その時よりももっと深まったような、大きな喜びに包まれた。

だから、涙が出た。
どんなに辛い時でも、ふりかえれば、イエスに守られていた旅の記憶が、今はただ、楽しく思い返された。
涙で心からすべてがとけて、おちて、ながれて、きえて…そして、苦悩の荒野は、楽しき荒野に変わった。
だから、涙が出た。
ふと見上げれば、イエスも泣いていた。


これが私の人生という聖書の第一章、「荒野の旅」の締めくくりの文章である。

この文章を書くまでは、私は『わたしは主である』という文章にしたためた、「イエス・キリストの山」の山頂で見つめたイエスの永遠の微笑こそが、私の荒野の旅の終幕の一文だと信じて疑わなかった。

が、あのいまだかつて誰も書いたことのないような美しく、感動的な一場面とは、私に与えられた「文句なしの神の憐れみ」と、「イエス・キリストの再来の啓示」であって、今日ここに書き表した「荒野の雅歌」こそが、私の人生という聖書の第一章(荒野)の結末であったのである。


それでは、第二章とは、いったいどんなものであろうか。

いったいどんなシーンから、私の人生という聖書の新たなる一章は、始まるだろうか。

言うまでもないことだが、それは主によって胎を閉ざされていたために、「子を産めずに悩み嘆き、激しく泣いているハンナの祈り」から、幕を上げられてゆくのである。



つづく・・・


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