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神殿なんかいらない ③


――
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。
――


それゆえに、

なんどでもはっきりとはっきりと言っておくが、

自覚、意識、悪意の有無を問わず、イエス・キリストを宣べ伝えるようなフリをしながら、教会や宗派や神学や教義やを言いふらす行為は、人に対してだけでなく、神に対する「罪」である。

なぜとならば、そういう行為こそが「人々の前で天の国を閉ざす」行為にほかならないからである――これはけっして、私の言葉ではない。

それゆえに、

これについては純然たる私個人の言葉だと受け取ってもらって結構であるが、

神がダビデに「神殿なんかいらない」と言ったように、

私もまた、「教会なんかいらない」――いるわけがない。


イエス・キリストを本気で知ろうとする人間に、教会なんかまったくもって不要である。

私のここで言う「教会」とは、

特定の宗派の下に徒党を組んだり、人を恐れに陥れるような教義をまき散らしたり、自分たちの授ける洗礼(バプテスマ)を授かれば破滅の運命から救われるという大嘘をまき散らしたり、福音とはフリーギフトを受け取るだけだというような詐欺話を持ち掛けたり――そのようにして、人様から当然のごとく寄付や施物をせしめとる、そんな暴力団事務所のような教会のことである。

暴力団事務所という表現が不適切ならば、サタンとか悪霊とかいうものによって、偽預言者や偽りのユダヤ人たちやがさながらパンダやコアラのように飼育されている、「アホのサーカス」と言った方がより正確であろうか。

だからこれは私個人の意見として言っておくが、

教会なんぞいう名を冠した建物、組織、集会、集合体、共同体――そんないっさいが、イエス・キリストを知るためには不要も不要、不要の極みというものである。

なぜとならば、

「イエス・キリストを知るためにたったひとつだけ必要なものとは、イエス・キリスト自身だから」である。

はっきりとはっきりとはっきりと言っておくが、

「イエス・キリストを知るためにたったひとつ必要なものは、イエス・キリスト自身である」――これだけは、これだけは、私の個人的意見なんかではけっしてない。

なんどでもなんどでもなんどでもはっきりとはっきりとはっきりと言っておくが、

「イエスがキリストであり、キリストがイエスであることを知らしめるのは、イエス・キリストだけである」

これは、わたしの神であり、私の心の中に永遠に住むことを決めたイエス・キリストから言えと言われたまま、言っているばかりである。


それゆえに、私個人としては、ありとあらゆる教会なんか「いらない」のである。

この世に蜘蛛の巣をはりめぐらせている偽りの教会なんかには、ぜったいに分からないし、想像もできない真理であるが、真の教会とは「イエス・キリストが永遠に住む場所」のことを示唆しているからである。

イエスは十字架に架かって死に、復活し、昇天し、命を与える霊となり、イエスがキリストであることを知りたいと希う者たちの中に永遠に住むことを決め、キリストがイエスであることを信じる人々をイエス自身の中に永遠に住まわせることを決めた――

これが、「イエス・キリストの福音」である。

私が年端も行かぬ頃より命をかけても知りたいと熱望してきた、「イエス・キリストのキリスト・イエスたるゆえん」である。

私は、イエス・キリストがわたしの中に永遠に住むことを決めたという福音の実体験を、この世の教会の「外」で経験した。

いかなるキリスト教的なるもの、ユダヤ教的なるものの「外部」において、経験した。

ありとあらゆる宗派、神学、教義なるものから、完全かつ絶対的に隔絶された、私のちっぽけな人生においてこそ、

私は、イエス・キリストがわたしの中に住み、わたしがイエス・キリストの中に住むという福音の経験をくり返している。

これを比ゆ的な表現を用いて言い表すとすれば、「初夜」のようなものである。

処女と童貞が生まれて初めてまぐわうように、互いに互いを「知る」という行為は、完全かつ絶対的な「ふたりぼっち」の世界においてなされるものである。

イエス・キリストの身体を「知り」たければ、イエス・キリストの身体を探し求めればいい。

キリスト・イエスの心を「知り」たければ、キリスト・イエスの心を祈り求めればいい。

――少なくとも、「イエスとわたしの初夜」とは、いつもいつでも、そしていつまでも、そのようなものである。


それゆえに、

この世のいかなる教会にも「霊的」な関心のない私は、「肉的」にもいっさいの関わり合いを有していない。

だから、ある日突然この地上から教会という教会が消え失せてしまったとしても、そこでかき集めた献金によって飯を食っているわけでもなく、職を失うことになるわけでもないので、死活問題にもなりえない。

肉と霊、いずれにおいても、この世の教会に「利害関係」を持たない私にとっては、

イエス・キリストを知りたいと思った時は、

イエス・キリストの霊を祈り求めるだけなのである。

はっきりとはっきりとはっきりと言っておくが、

イエス・キリストの霊を与えてもらうのに、いかなる「仲介人」も不要である。そういう「自称・仲介人」が提供するいかなる「儀式」も、いかなる「手続き」も必要ない。(初夜というふたりぼっちの世界に、いかなる邪魔者も入り込むことはけっして許されないように。)

それゆえに、そういうものを売り物にしているようなあらゆる場所、あらゆる活動は「罪」である。

「罪」でなくてなんであろう――神殿の境内で商売が行われている様子に激怒したイエスが、「祈りの家を強盗の巣にした」と叫んで、暴れたとおりである。


「イエス・キリストの霊を与えてもらいたければ、たったひとつの自分の身と、たったひとつの自分の命をかけて、願い求めればいいだけ」である。

まことにしつこく言っておくが、これは私が言っているのではなく、イエス自身が言っているのである。

「叩けよ、さらば開かれん」という言葉のとおりに――。

それゆえに、

もしももしも、私が幻覚と発狂と譫妄とによって私個人の意見を述べていたにすぎないとしても、私は「イエス・キリストのことはイエス・キリストに聞け」と訴えているまでなのだから、どこにオカシイ点があるだろうか。

かつて、切った張ったの投資の世界で勝ち続けている口の悪い中年男から、「チャートは常に動いている、だから、相場のことは相場に聞け」という格言を投げつけられたように、

「イエス・キリストは生きている、だから、イエス・キリストのことはイエス・キリストに聞け」

――これ以上にまっとうな、当たり前な、当然な主張がどこにあるだろうか。

神のことは神にしか分からない――これについて、聖書の中に名の出てくるようなすべての偉人賢人たちをして、いかな反論ができただろうか。いわんや、それ以外のたかが凡庸たるキリスト教徒やユダヤ教徒ふぜいにおいておや。


『万軍の主の名によって』という文章にも書いたことだが、

私は自分が無知無能無学無教育無教養無資格無実績無神経無作法…な人間であることを、よくよく承知している。

おそらくは、「わたしこそがイエス・キリストの最愛の友である」と公言できる「たかが人間」の中においては、無知無能…の度合においてサイアクの輩である。

しかししかし、

そんな「たかが私」ではあるが、コアラやパンダにそっくりな誰かさんたちのように、イエス・キリストを「売り物」にしたりしない。

いまだかつてしたこともないし、したいと思ったこともない――自分がどんなに貧しく乏しく、寒さや恐れに心身を震わせていた時にあっても。

これが「キリストだ、キリストだ」と吹聴して、宗派だの神学だの教義だのいう「つぶせば毒蛇が飛び出す卵」をかえすような罪深き伝道に参画することはけっしてしないし、

系図だの民族だの神殿だの国家だのいう「身を覆うこともでない災いの織物」でしかないようなもののために、「くもの糸を織る」ような悪しき働きもぜったいにしない――したこともない。

しかしもしも、

もしも、自覚、意識、悪意の有無を問わずに、「気づかない罪」として、そのような「罪の極み」を私が犯してしまったことがあるのならば、

この場を借りても、十字架で死に、復活し、昇天したイエス・キリストのとりなしによって、憐れみ深き父なる神の憐れみと赦しをば祈り求めよう。

そのようにして、私がこの地上にあっても、イエス・キリストの再臨の地に永遠に住むことができるように。


「わたしはあなたに告げる。主が、あなたのために家を建てる。 あなたが生涯を終え、先祖のもとに行くとき、あなたの子孫、あなたの子の一人に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。 この者がわたしのために家を建て、わたしは彼の王座をとこしえに堅く据える。 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。わたしはあなたに先立つ者から取り去ったように、彼から慈しみを取り去りはしない。 わたしは彼をとこしえにわたしの家とわたしの王国の中に立てる。彼の王座はとこしえに堅く据えられる。

――これが、神のために神殿をと考えた人間に向かって、神が与えた回答の後半部分である。

後半部分であり、もっとも重要な「神の思い(真意)」が込められているところである。

ダビデやソロモンがその思いをどれだけ理解していたか知らないし、その思いの込められた言葉を託された預言者ナタンにおいてもどうだったのか知る由もない。

はっきり言って興味もない。

というのも、神殿を造ろうと思い立った人間に向かって、神が与えた回答は、「今も生きている」からである。

それゆえに、すでに死んでしまった人間が、「今なお生きつづける言葉」を受けてどのような行動を取ったのかなどという研究分析に熱を上げるよりも、

同じ「生きる言葉」を与えられた、今日生きている自分がどのような行動を取ろうとするのか――その方がどれだけどれだけどれだけ、本質的であろうか。


だから、私の心は、なにごともイエス・キリストに聞こうとする。

「神殿なんかいらない」と言った神の最初の回答のように、

私も「教会なんかいらない」という生き方を心に決めた――子供の頃から不幸な邂逅がくり返された、偽教師や偽預言者や偽りのユダヤ人やなんかの重ねつづける「罪」などに、ぜったいにこの身を巻き込まれたくないから…!

偽教師、偽預言者、偽りのユダヤ人どもが巣食っているこの世の偽りの教会とは「バカ」ウィルスの感染源で、自称クリスチャンどもはそのスプレッダーでしかなく、そんな不浄なるウィルスをば絶対にうつされたくないから…!

それはそれでいい。

さりながら、

「主が、あなたのために家を建てる」

とか、

「わたしは彼をとこしえにわたしの家とわたしの王国の中に立てる。彼の王座はとこしえに堅く据えられる」

とかいった言葉たちを、

そこに込められた神の思いを、私はいったいどのように自分の人生に反映させていったらいいのだろうか――?


私の身体は、なにごともイエス・キリストに訊ねようとする。

「信仰」をもって読めば、ここで言われている「彼」とか「家」とか「王国」とか「王座」とかいうものが、すべて、なべて、おしなべて、イエス・キリストを示唆していることが分かる。

それはそれでいい――事実、その通りなのだから。

しかし、だからなんだというのか?

人間の神殿なんかいらない。神が宿る場所、住む場所があるとしたら、それは神自身が造る。

それもそれでいい――それでこそ、神であるのだから。

しかし、だからなんだというのか?

神が住む場所に、お前の住む場所も用意してやる。俺とお前とが永遠に一緒に住むことができるように。

それもそれでいい――そんなアリガタイお言葉を賜って、感動と感謝と賛美以外のなにを捧げえよう。

しかししかし、

だから、だから、だから、いったいなんだというのか?


そのような言葉のすべてが、

「今日を生き延びようとしている私」に、「いまを生きようとしている私」に、「今、目睫に横たわっている困難を生き抜こうとしている私」において、

彼だの、家だの、王国だの、王座だの――そんないっさいが、いったいぜんたいなんであるというのだろう…!

私には、それが分からない。

分からないから、彼であり、家であり、王国であり、王座であるところのイエス・キリストに聞こうとする。

どうしても知りたいと希うから、今日もまた、イエス・キリストとふたりぼっちの世界で初夜を迎え、全身全霊でまぐわおうとする。


イエス・キリストは生きている。

原初の昔のその前から生きていたし、過去の歴史の中にも生きていたし、今のこの時代の、この瞬間においても、生きている。

わたしのかたわらで、わたしの姿をその佳美しい虹彩の中に映しこみながら、動いている。

昨日は右へ行け、と言っていたが、今日は左だと言っているのか。

私はそれを聞き分け、それを見分けようとする。

あるいは、今は山のようにじっと動かずにいろと言っているのか。

私の心は、「いま、イエスはなんと言っているのか」を知ろうとする。

それが私の「信仰と行い」である。

これを世知辛い言い方で表現するならば、それがわたしの「投資」であり「トレード」であり「喧嘩」であり、この地上を生き抜くための「生存戦略」なのである。




追記:

教会とは「閉ざされた言論空間」である。

宗派、教義、神学の類は、偽りのユダヤ人たちが紡ぎ、偽預言者らが張り巡らせ、バカが捕らわれる、「蜘蛛の巣」である。

イエス・キリストの福音とは、そのようなすべてのものから自由になるための、「霊のバプテスマ」のことである。

真の神殿とは、神が住む場所であり、神が住む場所だけが、「神の家」なのである。

イエスを死から復活させた方の霊がわたしの内に宿ること――これが、この自由の実体験と、福音の人生経験こそが、「イエス・キリスト」である。

「今日を生き抜こうとするわたし」の祈りに答えて、与えられた神の回答である。

そして、死ぬべきはずの身体をも生かしてくれる、神の憐れみであり、恵みであり、救いであり、祝福であり、永遠の命である。

だから、

『喜びの神殿』という文章を書かせることによって、わたしの神は、「主が、あなたのために家を建てる」という神の言葉を、ほかならぬ私の身において、実現させたのだった。


令和五年九月十二日
無名の小説家

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