見出し画像

アブラハムの子孫とは、キリストのことである ③

であるからして、

ここまで語って来たことをもってしても、冒頭の、

アブラハムの子孫とは、キリストのことである――

という聖書の言葉の、真実であることが分かるだろう。

間違っても、

アブラハムの子孫とは、「外見上のユダヤ人」でもなければ、「外見上のクリスチャン」でもないということが、分かったはずだ。

なぜならば、「外見上のユダヤ人」や「外見上のクリスチャン」こそ、キリストを十字架にかけて殺してしまったからである。


換言するならば、キリストを殺したのは、「ルサンチマン」である。

これをさらに現実的に、政治的に、人間的に翻訳するならば、「イエスはユダヤの王として失格だった」ということである。少なくとも、それが時の(外見上の)ユダヤ人の祭司、レビ人、長老たちの「判断」だった。

もう一度言うが、「イエスはユダヤの王として失格であると、時の(外見上の)ユダヤ人たちに判断された」

――この一点が分かってないと、ただその辺に建てられた教会という名前をもらった建物に通いつめたところが、マトハズレな「アーメンごっこ」をくりかえすハメになる。

聖書のことなんかろくすっぽ分かってもいない――ただ単に神学校でカリキュラムを修了した程度の勉強で、牧師や神父になったつもりでいる――トンチンカン「レビ人」と一緒に「聖書ごっこ」をして、何年も何年も、ヘタをすれば死ぬまで「ごっこ」だと気づくことのないまま、「クリスチャンライフ」なるものをまっとうするハメになる。

あまつさえ、

「シオニズム」などいう、トンチンカンな「歴史」をくり返し、イスラエルという「国家」を支持し、キリストの再臨をエルサレムという「地」においてなされるものと思い込み――そうやって、世界中に戦争や紛争や貧困や飢餓やといった「禍い」をまき散らすハメになるのである。…


私は、個人的には、「教会ごっこ」や「クリスチャンごっこ」については、「どうぞご勝手に」という言葉でもって片づけられるかもしれないが、「シオニズム」については、どうやらそういうわけにもいかないようだ。

なぜならば、「シオニズム」とは、「内面ではなく外見上のユダヤ人のための国家の再興」にほかならないから。

そんなものは、要するに、「(ユダヤ的)ルサンチマン」が為せる「復讐劇」であって、それ以外の何だというのだろうか。

もしも私の言うとおりに、それが「ルサンチマン王国」であるならば、それは「キリストの王国」なんかでは、けっしてない。(なぜならば、イエスを十字架で殺したのは、ユダヤ的ルサンチマンだったのだから。)

それゆえに、そんなルサンチマン王国に、「キリストの再臨」が起こるはずがないではないか…!

むしろ、どんなにか恐ろしい、おぞましい、血みどろの「復讐」こそ、引き起こされるのではないだろうか…!

「復讐」こそ、あらゆるルサンチマンの、最終目標なのだから…!



『相性最悪の恋人たち』という文章の中でも書いたことだが、

バビロンやアッシリアといった帝国による、血も涙もない侵略と捕囚の歴史を経、ローマによる植民地的支配という恥辱の日々を忍んできた民衆の目の前に現れたのは、イエスという名をした、たがか「大工の子」であった。

「こんな奴が、何千年もの間、預言されつづけ、私たちが焦がれ焦がれつづけて来た「救い主」なのか…!」という「失望」が、イエスを殺したのである。(失望は、ルサンチマンに「動機」を与えた。そうやって、イエスを殺すことによって、ルサンチマンは「神」に対して「復讐」したのだった。)

――こういう歴史的な視点から、「十字架の死」を見ることのなかったならば、「イエスの教え」など、単なる「道徳」の域を出るものではない。

ユダヤ人イエスが殺されたのは、歴史的に見れば、必然と言えば必然だった。

――「学問」や「アカデミー」や「知識」なんかではなく、そういう現実的な、政治的な、人間的な視点を持たなかったならば、

そういう人間的な視点をば「自分の人生をもって知っている」者でなかったならば、

「人間イエス」も、「復活したイエス」も、「物語」の中のおとぎ話にすぎないのである。


私の言っていることが分からなければ、想像してみればいい。

もしも、どこぞの国の大統領か国家主席かが皇居に住んでいて、そんなうすら馬鹿の子分たちから、毎日のように迫害を受けねばならない日々にあえぐ中にあって、「敵を愛せよ」とか、「右の頬を打たれたら左の頬を向けよ」とか、「権威をもって語られた」としたら、どうだろうか?

不義な、不当な、不公正な圧政から、自分たちを解放してくれるからこその「メシア」であるはずなのに、

そのような圧政の中にあってこそ、「天の父が完全であるように、あなたがたも完全となりなさい」と言われ、「明日を思い煩うな」と言われ、「皇帝のものは皇帝に返し、神のものは神に返せ」と言われたとしたら、どうだろうか?

「偉くなりたい者は、皆に仕える者になれ」と言われ、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になれ」と言われ、

――要するに、「変わるべきは、まずもって、お前たちの方なのだ」と言われたとしたならば、どんな気持ちがするだろうか?

「こいつはいったい何者なんだ?」
「右の頬を打たれたら左の頬を向けよ、とは、誰に向かって言ったのだ?」
「迫害する者のために祈れとは、誰に向かって――そうだ、俺に、俺自身に向かって言ったに違いないのだ…!」
「ならば、憎き帝国のため、憎き皇帝のため、憎き三下たちのためにこそ、祈れということか? 毎日のようにくり返される迫害をば、喜んで受け入れろということか? それが神の御心だというのか? 王国再建の約束はいったいどうなったんだ? これ以上の恥や苦しみにも甘んじて耐えろというのか? なぜだ? そんな奴が、なぜ奇跡や癒しの業を行えるんだ? このままでは民衆は彼を支持し、俺たちの今の立場は無くなってしまう。なぜだ? なぜなんだ…?」

――というふうに、思わないだろうか?

いや、きっと、当時の(外見上の)ユダヤ人たちは、イエスとあいまみえた時、そんなふうに思ったはずである。

それゆえにそれゆえに、そういう思いが煩悶となり、怒りとなり、恨みとなり、憎しみとなり、失望となり、、、(あるいは、ただ単に「政治的に邪魔者」だと判断されて)、、、そのようにして、イエスは殺されたのである。

メシアが殺されたのは、当時の人間の思い描いていた「約束の地」と、神の示した「約束の地」とに、あまりにも乖離があったからである。

人間の思い描いた「救い主」と、現実に現れたイエスという「救い主」とに、あまりにも相違があったからである。

人間の祈り求める「救い」と、神の提供する「救い」とに、あまりにひどい、受け入れがたい、信じられないような「差」があったからこそ、「イエスは殺された」のである。

この一点が分からない――自分の人生をもって知らない――人間が、いかに「復活したイエス」を語ったとしても、それはピーマンのように中身のない、スカスカの言葉でしかない。

ボーヨミの、猿やオウムでもできるような、「暗唱」でしかない。

そんなものを何千年やり続けたところで、「復活したイエス」にも、「憐れみ深い父なる神」にも、永遠に出会えない。

多少余談を含むが、聖書をへブル語やギリシャ語で解説するなんて、まさにそういう類の「愚行」でしかない。

原文で読めば、聖書が分かるなんてことは、けっしてない。

なんどでもなんどでも、はっきりと言ってやるが、たとえ原語で読んだからといって、「聖書」が分かるようになるなんてことは、けっしてない。そんな程度の努力で済むのならば、「ほんとうのユダヤ人イエス」は殺されずに済んだのだ。イエスを殺したのは、「聖書を原語で読んでいた祭司やレビ人や長老たちだった」のだから。

原語で聖書を読むことにやっきになっている輩たちは、「神の霊以外に神のことを知る者はいない」という聖書の言葉を、もう一度考えてみたらいいだろう。

聖書を原語で読めば分かるとカンチガイして、「ユダヤ人ごっこ」に明け暮れているのは、「イエスを復活させた方の霊」がその人の内に宿っていないという証左でしかないのである。


だからこそ、『人はパンのみにて生くるにあらず』という文章の中でも、私は書いたのである。

「神を信じることは、この世でもっとも難しい行為である」と。

たとえば、どこぞの国のうすら馬鹿が皇居に住んでいる、、、そんな状態にあって、「敵を愛せよ」とか、「迫害する者のために祈れ」とか言われたとしたならば、私は個人的にはとてもとても、「アーメン」することなど、できはしない。

そのような「教え」を説いて回っていた「ほんとうのユダヤ人イエス」を、たとえ魂の底では慕いながらも、「教え」の正しいものと分かっていながらも、「迫害する者のために祈る」ことなんか、できはしないのである。

それが「罪」だというのならば、まさにキリストは「罪のために死んだ」のである。

―― キリストはわたしたちの罪のために死んだ ――

この「ために」の中に、「せいで」というニュアンスを汲み取らない者は、アブラハムの子孫だとも、「キリストのもの」だとも思われない。

キリストはわたしたちの罪のために死んだ、というのが「福音」ならば、キリストはわたしたちの罪のせいで殺された、というのが「歴史」である。それは今なお、毎日のようにくり返されている、「現実」なのである。「現実」に即さない「福音」なんか、いかなる「力」を持った、「良い知らせ」なんだろうか…!

そんな「せいで」を知らず、「せいで」を語ることもなく、「ために」ばかりをしたり顔で説かれても、シラケるばかりである。そんな程度の「ために」にあぐらをかいているから、「ごっこ」の域を出ることがないのである。かつての(外見上の)ユダヤ人のように「選民思想」にあぐらをかけば、あげくのはてに「躓く」のオチなのである。




つづく・・・

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?