見出し画像

神殿なんかいらない ②


――
しかし、その夜、ナタンに臨んだ神の言葉は次のとおりであった。
「わたしの僕ダビデのもとに行って告げよ。主はこう言われる。わたしのために住むべき家を建てるのはあなたではない。 わたしはイスラエルを導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕から天幕へ、幕屋から幕屋へと移って来た。 わたしはすべてのイスラエルと常に共に歩んできたが、その間、わたしの民を牧するようにと命じたイスラエルの士師の一人にでも、なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか。…」
――


ものはついでなので、上の聖書の一文についても、すこしだけ触れておきたい。

これは、「主なる神のために、りっぱな神殿を建設しよう」と思い立ったダビデ王に向けた、主なる神からの回答の前半部分である。

この、まことに示唆に富んだ神の言葉であるが、冒頭の「写真の中の汽車」の警鐘と、重なり合っている。

要するに、

神なる存在とは、しょせん人の手の造った建物の中におさめられるようなものではけっしてない、ということである。

これをもっと短く言うと、

「神は生きている」

という言葉となる。

冒頭の三流映画の話でもないが、ある生物が、別の生物を檻の中に閉じ込めて、管理し、コントロールすることは「無理ゲー」なのである。

可視の生物でさえそうであるというのに、どうして不可視の神をば、石や木で造ったばかりの建造物なんかに閉じ込めることができようぞ。

いちおう、ダビデ王ためにも言い添えておくが、神殿を造ろうと思い立った彼の心の中に、「恐竜のサーカス」的なたくらみがあったとは思えない。けれども、「人の心の深みを究める神」に、その時どんな思いが見えてたのか、それは神にしか分からないが。…


いかなる思いを見ていたにせよ、

原初の昔のその以前から「生きている神」を、地上の神殿なんかに収めようとするな――

これが、歴史上において神のために神殿を造ろうと最初に考えた「最初の人間」に向かって、神が与えた「最初の回答」であった。

はっきりと言っておくが、

「わたしはイスラエルを導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕から天幕へ、幕屋から幕屋へと移って来た」

この言葉に込められた「神の思い(真意)」を、その身をもってダビデが理解できていたかどうかは、はなはだ疑わしい。

後年、レバノン杉をふんだんに用いて神殿の建設に成功した、ダビデの子ソロモンにいたってなお、すこぶる怪しいと言わざるを得ない。

そして、

はっきりとはっきりと言っておくが、

私がいつもいつも批判して、おおよそ、その歴史にも諸活動のいっさいにも敬意というやつを抱き得ないこの世の「教会」とか「クリスチャン」とか「キリスト教」とか「ユダヤ教」とかいう世界においては、ほとんど絶望的である。

なぜとならば、

おおよそ上のような種族の者たちの活動たるや、「教会」とか「宗派」とか「神学」とか「教義」とかいう、レバノン杉の神殿にすらはるかに見劣るような「人の手の作った物」のその中に、「生きている神」を閉じ込めようとする、愚行の極みにほかならないからである。

それゆえに、

まだ齢二十にも満たない頃から、そんな「アホさ加減」に嫌気のさしていた私は、当時齢八十であったとある老牧師にむかってずけずけと、一抹の忌憚も、腹蔵も、容赦も、迷いもなく、言い切ったのだった。

「俺はイエス・キリストを知りたいと思って教会を訪ったのであって、あんたの説いている「教義」なんか、糞ほど知りたくもねぇんだ」…


私は今でも、あの日あの時あの瞬間の、あの少年たる私をば、誇りにしている。

わずか十六、七歳のクソガキが、八十年という長日月を「立派に」生きながらえてきたご老人様に面と向かって物を言い、その結果、彼がにわかに絶句し、それ以上二の句も継げなくなってしまったほど完全な論破をしてみせたのだから。

あからじめ言っておいたように、「口喧嘩では子供にも勝てない」ような性分の私をして、「人のいちばんいやがることを絶妙のタイミングと的確な描写でずけずけ言わしめた」のは、私の力ではない。

だれか、私以上の知恵や才能を持った者がそうさせたのである。

あえて、いかなる誤解も批判も恐れずに言っておくが、たとえそれが神ではなく、悪魔であったとしても、私はいっこうに構わない。

なぜとならば、

「イエス・キリスト」を宣べ伝えていると言いながら、その実、自分が所属し、支持している「教会」だの「宗派」だの「神学」だの「教義」だのいうものを説いてまわるという行為は、純度百パーセントの「罪」にほかならないからである。

それゆえに、

当時、私に「イエス・キリスト」ではなく、教会や宗派や神学や教義やを刷り込もうとした齢八十の老牧師は、歴然たる「偽教師」であり、「偽預言者」であった。

もっと言えば、神と私に対して大嘘をついた、大犯罪者である。

はっきりと言っておくが、

「大犯罪者」なんて単語は、イエスその人の言葉遣いと比べたら、まったくもって甘っちょろい、ひかえめな、心やさしいものでしかない。

というのも、

かつてイエスは、律法学者やファリサイ派の人々にむかって、「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れえようか」とまで言って、「偽教師」や「偽預言者」を糾弾したのである。

それに比べたら、「お前の信じてる教義なんて、糞ほど役に立たない」という私の毒舌くらい、なんであろう。


かつて、十六、七歳の頃に生まれて初めて聖書を読んだように、私は生まれて初めて教会を訪った。

それから数ヵ月の間、齢八十になったばかりだったとある老牧師から、聖書の個人教授を施された。週に一、二度のことだったが、学校帰りに、その教会の空き部屋において、聖書の「基礎知識」を学ばされたのである。

はっきりと言っておくが、その時に学んだことなど、私は何ひとつ覚えていない。ただのひとつでさえ、我が大脳皮質は記銘することなく、あるいは一千億個におよぶニューロンのひとつひとつがそれの伝達に意義を見出さないでいるようである。

齢八十の老牧師様からなにがしか良きこと、美しきこと、気高きこと、素晴らしきこと、記憶すべきことを教えていただいことなど、ただのひとつさえありはしない。

ならばその時、うら若き少年にあてがわれた「基礎知識」とは、いったいなんであったのだろうか――すでに述べてきたとおり、世界的な大組織であったその宗派の信奉する、「教義」にほかならなかった。

さながら学校や塾で提供される教材のように、それは穴埋め問題の形式をとったテキストブックの中に、縷々としたためられていた。

そして、齢八十のご老人はただただひたすらに、その「教材」を忠実になぞらえながら、己の孫のような年齢の少年にむかって、「教義」を説き明かそうとしていたのだった。

はっきりと言っておくが、

ご老人が忠実であられたのは「教材」にのみであり、口端に白い唾をためながら熱心にお話しになられていたのは「教義」ただそれだけだった――にもかかわらず、彼は私に「聖書」を教えている気になっていた。

あまつさえ、「若者の進むべき道」や、「神の知恵」を授けている気にまでなっていられた。

なによりもなによりも、この哀れにして惨めなるご老人におかれては、「イエス・キリスト」を伝道している気にさえなっていられたのである――

そしてそして、このバカの極みとでも形容すべきクソジジイ様におかれましては、己の盛大なるカンチガイにも、トンチンカンにも、マトハズレにも、最後の最後まで気づくことはなかったのでございました…!


話は変わるようだが、この地上にはまことに奇妙な動物が生息している。

例えばコアラという有袋類の動物であるが、その見た目の愛くるしさから多くの人間の歓心を買っているのだが、その生態を観察すると、じつに独特な生き方をしている。

こと食べ物については、ユーカリという毒性の植物を常食としており、その葉に含まれる毒を体内で分解するために、一日のほとんどを寝てすごしているのだとか。

また、

パンダというクマ科のほ乳類は、本来肉食性であったにもかかわらず、竹や笹を主食としており、そのために栄養摂取が十分にできておらず、繁殖力も低くなりさがり、よって人間の手を借りてもなお、交配も出産も、生まれた子どもの生育も極めて難しいのだとか。

コアラにせよ、パンダにせよ、なにゆえにこんな動物が野に解き放たれているのか知らないし、ほとんど関心も沸いて来ない分野ではあるが、

「ある生物が別の生物を管理し、生態系をコントロールするなど無理ゲー」という主張に対するアンチテーゼを見ているようで、面白く思わないこともない。

面白くないとも言えないけれども、こんな、見た目が人間にウケた程度の理由で自分以外の生物に「飼育」されて生きながらえているような動物の体たらくになど、まったくもって感動を覚えることがない。

はっきり言って、「ブザマだ」というひと言しか、コアラにでもパンダにでもくれてやる言葉など見当たらない。


さりながら、

そんなブザマな生物たちの生き様と、この世の「クリスチャン」なる種族たちのそれとは、まことに良く似通っているのである。

すなわち、

教会だの宗派だの神学だの教義だのいう、ユーカリの葉よりも「無栄養」にして「毒性を含む」食べ物を常食とし、

人々から「献金」をしてもらったり、「寄付」や「施し」をしてもらったりしなければ、まともに食ってさえいけないパンダにも見劣るような生態系をば、

私は子供の頃から全身全霊で忌み、拒み、批判して来た。

ただし、

これは「嗜好」の問題であるので、そういう他人に依存しているような生き方を良しとしている人間そのものを、私は批判しているのではけっしてない。

はっきりとはっきりと言っておくが、

私がいつもいつも「キリスト教」だの  「クリスチャン」だのいう世界を批判し、こちらとしてももうヘドの出るくらいウンザリしているというのに、けっしてやめられない理由があるとしたら、

それはひとえに、「イエス・キリスト」を宣べ伝えているようなフリをしながら、その実、自分たちの教会を推薦したり、自分たちの支持する宗派を宣伝したり、自分たちの信奉する神学や教義やをやっきになって言いふらしたりしているからである。

そういう人々をこそ、今も昔も、そしてこれからも、イエス・キリストは「蛇よ、蝮の子らよ…」と言って、糾弾するのである。

それゆえに、

いつもいつも言っていることだが、私は、イエス・キリストから言えと言われたまま言っているまでである。

百歩譲って、「クリスチャンの生き様なんかパンダにも見劣るブザマなもの」というのが私の個人的な言葉遣いにすぎないとしても、

「俺はイエス・キリストを知りたいのであって、お前の教義なんかクソクラエだ」というのは、私の個人的な意見なんかではけっしてない。



つづく・・・


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?