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ヨハネの洗礼、キリストの洗礼 ①


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イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。
――



さて、

例によって例のごとく、わたしの神イエス・キリストによって、新約聖書の使徒行伝について語ることを命じられたので、ここにしたためておくこととする。

が、まずもって断っておくが、私がこれから語らんとすることについては、おおよそ、これに先立って書き綴って来たことと、同様の主張を展開することとなるであろうということだ。

たとえば、つい先日、『喜びの神殿』という文章において、私はかつて侵略され、破壊された神殿の再建にあたったエズラやネヘミヤやといった者たちの人生を語ることを通して、その当時の神の御心とは、侵略と捕囚の歴史によってルサンチマンに冒されたがために、ひねもす神へ向かって不平不満を託つけていた当時のイスラエルの民たちの「心の復興」にあったことを、はっきりと書き表した。

そして、そんな神殿再建の様子を記録したエズラ記やネヘミヤ記について、また、時を同じくして書かれたハガイ書やゼカリヤ書やマラキ書といった預言書について、いま、それらの文字を読もうとする当代の人間たちのための神の御心のなんであるのかも、はっきりと、明確明瞭に示してみせた。

――だから、私はいまだにもってそのような、私のものと少しでも似かよった文章をひとつとして知らないし、これからもこの世のユダヤ教だのキリスト教だのいう偽りの舌によって吐かれ続けるであろう、ありとあらゆる嘘、欺き、まやかし、ほら、妄言、空言、狂言、讒言、食言、ざれ言、たわ言、痴れ言、世迷言、豚の寝言、徒口、能書き、駄弁、冗語、うつけ話等々の寄せ集めでしかないところの宗派教義神学といった「蝮の卵」からは、けっして聞き及ぶことのないであろうことも知っている。

が、本来ならば、たかが賤しき芸術家の身分でしかない、この私のような者の筆なんかによらず、ほかでもない彼らのような自称神の僕たちが、これまでに私のして来たような「神の言葉を力強く語る」行いにこそ、能動的に打って出るべきなのである。

ところがどうして残念ながら、かつて心をかたくなにして神の声に聞き従わずに荒野でのたれ死んだり、国も神殿も失ってバビロンの彼方へ散らされていったりしたイスラエルの民よりも、なおいっそうあくどい彼らとは、おしなべて蛇であり蝮の子であり偽預言者であり偽りのユダヤ人たちであるがために、そのような行為に及ぶことは、イエス・キリストの父なる神の御心によって、けっして許されていないのである。

その証拠としても、私がこれから語らんとする「聖霊のバプテスマ」についても、例によって例のごとく、彼らは見事なまでに、その身をもって理解していない。

理解していないから今日もまた、その人生をもって宗派教義神学といった蝮の卵をかえし続けては、「ガキの水遊びにも如かない教会のバプテスマ」というくもの糸を織り続け、そんなくもの糸で織った着物にもならない着物をば人々に売りさばいているのである。

それゆえに、はじめに、わたしの神イエス・キリストと父なる神に言えと言われたまま、はっきりとはっきりと言っておく、

もしも、「イエス・キリストの名による洗礼、すなわち、聖霊のバプテスマ」を授かった者であれば、そんなふうに偽りの教会の旗下に寄り集まったり、無意味にして毒性のバプテスマを人々に施したり、学校を卒業すれば誰にでもできるような与太話を垂れて当然のごとく献金袋を回したりと、そんなことをしながら人々の金を盗み、心を盗み、命を盗み取るような蛮行を働くことなど、けっしてけっしてできないはずである――なぜとならば、それこそが、まさにまさしくこの世でも来る世にあってもけっして赦されることのない、「聖霊を冒涜する罪」だからである。

これは、使徒行伝においても、ちゃんと書かれてある。

いわく、「ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた」

つまりは、聖霊にも信仰にもいかなる神の知恵にも言葉にも恵まれなかった者たちがかつてもそうしたように、彼らはそれから二千年もの歳月を経た今になってもまだ、「我々の宗派教義神学の教えに則って教会のバプテスマを受けなければ、あなたたちは救われない」と触れ回っては、人々を悩まし、自分も負い切れない軛を人に負わせ、神を試みているばかりなのである。


そこで、

私がこれから語る事柄――いわゆる初代教会時代について記録された使徒言行録――についても、私は、彼らのような耳にも心にも割礼を受けていない「霊的無割礼」な者たちに向かってではなく、まずもってわたしの神に向かって、その次に、私のように「聖霊のバプテスマ」を授けられた者たちに向かってこそ、書こうとするものである。

私のように信仰と霊を与えられた者であれば、タイトルを見た時点から、もうすでにピンと来ていることであろう。

すなわち、エズラ記やネヘミヤ記やその頃の預言書がそうだったように、使徒行伝という記録書もまた、ある明確な意図をもってそれが書かれてあるということが。

すなわち、冒頭のイエス自身が述べたひと言、

「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは、聖霊による洗礼を授けられる」

これこそが、使徒言行録の書かれた目的であり、さらにさらに言ってしまえばモーセの書いたトーラーも、それ以降のあらゆる預言者たちによって語り続けられて来たすべての神の言葉も、ここにこそ集約されるということが――。

それゆえに、

「イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」

とも書かれてある通りで、

「その上に聖霊が降って、力を受けた」者は誰でも皆、声を張り上げて語ったり、大胆な態度で話したり、さながら天使のような顔で物を言ったり、喜びにあふれて旅を続けたり、魔術や占いの類を追い払ったり、足なえの足を立たせたり、心を開いて熱心に神の言葉に聞き入ったり、賛美の歌に真夜中に聞き入ったり、長たらしい話に死んでもなお耳を傾け続けたり、持ち物を売って持ち寄ったり…といった行動に積極的に繰り出すのである。

反対に、

聖霊によるバプテスマを授けられなかった者とは、使徒言行録の最後の最後にあって、いざ立ち去っていこうとするユダヤ人たちに向かって、いみじくも使徒パウロが述べたように、

『この民のところへ行って言え。
あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍り、
耳は遠くなり、
目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、
耳で聞くことなく、
心で理解せず、立ち帰らない。
わたしは彼らをいやさない。』

というように、耳にも心にも無割礼なまま、神に見捨てられる。

また、耳にも心にも割礼を施された使徒によっても、「この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです」と、突き放されるのである。

一人の、無名の小説家としてもはっきりと言っておくものだが、このような締めくくられ方をした使徒言行録なる文章とは、その冒頭と末尾だけを取って見つめたとしても、実にもって鮮明な意図が、おのずと浮かび上がって来るものである。

まるで、それを読み終えたすべての読者が、その結果どちらの方へ峻別されていこうとも、それはひとえにその読者の心次第であると、伝えようとしているかのように。


であるからして、

この私も、まったく同じである。

この文章のみならず、私がこれまでに書いて来た他の文章を読んだ人間が、どちらの方角へ分けられていったとしても、それはその者の心の匙加減、つまりは、自由意志次第である。

がしかし、

ここでひとつ、はっきりとはっきりとはっきりと断っておくが、

私の言う、あなたの心の匙加減次第とは、「すべては自己責任においてどうぞ」といった、この世のあらゆる詐欺師や偽預言者たちの常套句になぞらえて、そう言うのではけっしてない。

私はこれまでもずっと、わたしの神イエス・キリストと父なる神に言えと言われたことを、言って来たまでである。

それゆえに、全責任は神にある。

すなわち、今も昔も、私が神の言葉を聞いた時にあって私の心を開いてきたのは神であり、これからも、神の声に呼応して激しく感動するような心を与えるのも神自身である。

そのように、しょせんはヘタな文章であろうが、あるいは古今東西の誰にも書けなかったような素晴らしい文章であろうが、私の書いたものを読む者の心が開かれるとしたら、それもまた神によるものであり、そうでなければ、ただそうでないというばかりである。

だからこそ、

私はこれまでけっして、「人に気に入られるような書き方」をしては来なかった。

この文章についても最後まで、人にへつらったり、おもねったり、あるいは誰かさんたちのしているような、人の心に恐れを抱かせるような教義神学をうそぶいたりもしない。

それは、

「聖霊の洗礼」とは、人に気に入られるような言葉や、人の心に恐れを抱かせるような教えのことではなく、

ただひたぶるに、神の声を聞き分けて、それに聞き従い、神の御心をその身をもって行うことができるようになるための、「心の割礼」だからである。

そのようにして、今回も「やれ」と言われたがそのために、そんな「霊的割礼」を見事に描いた使徒行伝について、思う存分に語ってみようというばかりなのである。



つづく・・・



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