見出し画像

不可視の教会


――
かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。
――


こんな日が自分の人生の上に訪れるとは思ってもいなかった。目に映るところはすべて神に対する疑いと怒りと憎しみしか生まず、死と絶望と孤独とばかりが満身にもたれかかっているばかりだというのに、それでもなお、わたしの心はわたしの神に感謝し、わたしの神を愛している――わたしの心は、そんなふうに造り変えられてしまったのである。

これこそが、わたしの内にあって、十字架上で「エロイ、エロイ…」と叫び上げながら、「自分を殺す者を罪に定めないでくれ」と祈り、「父よ、我が霊を御手に委ねます」と言って死んだイエス・キリストの”復活した霊”と、そんなキリスト・イエスを”復活させた霊”とが、わたしの中に宿り、わたしの中で息づき、いつかの昔日でも彼方の未来においてでもなく、いまこの時にあって、たしかに生きているという証左である。

またそして、

これこそが、わたしのいつも言っている「不可視の教会」であり、このような不可視の教会を心に宿した者だけが、そこで復活したイエス・キリストの霊を知り、キリスト・イエスの霊からも知られる者なのである。

それゆえに、わたしはこの世の可視の教会になど、けっして行かない。そんなところを訪うべきたった一つの理由すら見いだすことなく、むしろ、不可視の教会が自分の内にあり、ひねもすそこに生き、暮らし、礼拝し、賛美し、祈り、祈り、祈り続けているような人間が――そのようにして、こんなふうに書き、書き、書き続けているような人間が――可視の教会みたいな血塗られたバビロンなんぞにおいて、いったいどんな「用事」というやつを持ち得るだろうか――霊的にも、肉的にも。

ありうるかぎりの可視の教会には、いかなる真理も道も命もなく、むしろ人と神とに対する悪と罪とがはびこるばかりであり、よって、そんなところでは一欣のパンも食べるな、一掬の水も飲むなというふうに、不可視の教会から言いつけられている――霊的にも、肉的にも。

なぜとならば、ありとあらゆる可視の教会は、ありとあらゆる可視の富、国、大地、人間がそうであるように、必ず滅び、必ず死に絶え、すべてなべておしなべて、塵に返るばかりか、かの日あっては、「先祖の始めた悪事の仕上げ」をした罪をばことごとく問われ、公義と正義の神の裁きによって、いっぺんの憐れみもかけられることなく徹底的に滅ぼし尽くされるからである――霊的にも、肉的にも。

しかりしこうして、後に残り続けるのは、永遠に生きる不可視の教会だけとなるのである――霊的にも、肉的にも。

それゆえに、

始まったものに終わりはない。人が裁けないものは、神が裁く。神は見ていないようで、必ず見ている。祈りは聞かれていないようで、必ず聞かれている。だからこそ、どんなに孤独で、どんなに絶望的であっても、わたしは固く立って、今あるものを守るだけなのだ。

今あるものとはなにか。もはや言うまでもない、わたしの中に宿り、息づき、生き生きと生きている不可視の、永遠の、イエス・キリストの教会のことである。

それゆえに、このわたしは、いつもいつでも、そしていつまでも、堂々としていられるのである。自分にはもはや、いかなる罪もない。わたしのすべての罪は赦されて、すべての咎は取り除かれて、自分にはもはや、いかなる罪も咎も過ちもないということを知っているから、このように堂々と物が言える、文章が書ける、言葉にならない思いをば祈り得る、しかりしこうして、憐れみと慈しみの座へと、大胆に歩み寄っていくことができるのである。

こんな日が自分の人生の上に訪れるとは、思ってもいなかった。

目に映るところはすべて神に対する疑いと怒りと憎しみしか生まず、死と絶望と孤独とばかりが満身にもたれかかり、日がな一日、心魂をはがいじめにしているようであるというのに、それでもなお、それでもなお、わたしの心はわたしの神イエス・キリストに感謝し、わたしの神キリスト・イエスを愛し、愛し、愛し続けている。

そんなふうに、わたしの心は造り変えられたのである。いつもいつでも、そしていつまでも、ただ堂々と胸を張り、なにも恐れることなく、イエス・キリストの方へ、方へと、歩き続けていくために。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?