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エゼキエルこそ、「囚われの民」である


――
霊はわたしを引き上げて連れ去った。わたしは苦々しく、怒りに燃える心をもって出て行ったが、主の御手がわたしを強く捕らえていた。
――



聖書のエゼキエル書こそ、私の心を焼き、胸を焦がし、はらわたを捩れさせてきた「本当に苦しい預言書」は、ほかにないかもしれない。

よく、エゼキエル書は難解であると言われるが、私にとっては、これが「難解」だから、「本当に苦しい預言書」であるというわけではない。むしろ、エゼキエル書においては、「神の裁きの顔」がよく描かれており、また、「救いの顔」もよく描かれており、「難解」でもなんでもない。

もし、エゼキエル書を難解だと思うのであれば、それは冒頭の1~3章を「誤解」してるか、「読み方が浅すぎる」からである。ほかならぬ、聖書研究の第一人者であるところの、「レビ人」や「クリスチャン」とかいう者たちこそが。

エゼキエル書を読み解く鍵のひとつは、主なる神から「巻物を食べよ」と促されて、その通りにしたエゼキエルが心に抱いたという、「苦々しい思い」「燃える怒り」である。

「苦々しい思い」「燃える怒り」――それらはいったい何だったのか、という、この一点である。

あらかじめ、ひと言で言ってしまうならば、これはラザロの復活のところでイエスが覚えた「憤り」に、そっくりなのである。

がしかし、

まかり間違っても、それは「神の御言葉を述べ伝えたりすると、いろいろな人々から反論され、迫害される」といったような、そんなちっぽけな、薄っぺらな、浅すぎる理由から沸き上がった「苦々しさ」では、けっしてなく、

あまつさえ、「それでも私は今日もまた述べ伝えなければならない、ああ、伝道とはかくも苦しきものなりや」といったような、「はなはだ甘ったれた怒り」なんかでもない。

むしろ、

―― ああ、自分は選民だったのに、神のことなど、何も分かっていなかった…
―― ああ、自分も、自分の愛する同胞たちも、みな選民だったのに、神のことをいまだに何もわかっていない…
―― 神は激しく怒っている、ほかならぬ選民である自分たちに対して…
―― なぜ、こんなこと(捕囚など)になってしまったのか。なぜもっと恐ろしいことが、なおも起ころうとしているのか…
―― その預言をするのが、なぜ自分のような者なのか。自分が何者だからだというのか…
―― なぜ、こんなにも、世界は狂っていて、人間はかたくなで、そして憐れましい存在なのか…
―― なぜ神は、こんなことを許しているのか…いやもはや許さないから裁くのか…なぜ、どうして…

このような、魂を刺し貫かれる嘆きを自分自身に、同胞に、この世に、人間に、人生に、そして、ほかならぬ神自身に向かってほとばしらせたからこそ「苦々しく」、かつ「怒りに燃えた」ような思いをエゼキエルは抱かされたのである。

彼の食べた巻物の、表にも裏にも記されていた文字が「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった」とは、そういう意味なのである。

なぜとならば、これは神自身の「哀歌、呻き、嘆き」でもあるからである。

すなわち、人の心を焼き、神のはらわたを捩れさせるような「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」をば、エゼキエルは自らの歯をもって噛みしめ、自らの舌をもって味わった――それゆえに、エゼキエルこそが「囚われの民」を象徴する人間となった、という事なのである。

この点を、このたった一点をばきちんと捉え、踏まえているならば、エゼキエル書は、「難解な書」ではなく、読み終えたすべての者にとって「希望の書」となるはずである。


がしかし、どうして、残念ですが、

この世の「教会」にたむろしている「レビ人」だの「クリスチャン」だいう輩たちは、

エゼキエルこそ囚われの民である

この一点をまったくもってと言っていいほど、分かっていない。

ほかならぬ自分の身をもって、分かっていないし、理解しようともしていない。

なぜとならば、エゼキエル書を読みながら、自他に向かって魂を刺し貫かれるような嘆きを抱くこともなければ、人の心を焼き、神のはらわたを捩れさせるような「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」を自分の歯で噛みしめることもないからである。

少なくとも、エゼキエル書を読んだ人の中で、そのように「人、自分、神に向かって苦々しい思いを抱き、怒りを燃やした」ような事を言っている人を、私はこの世の「教会」とか「クリスチャン」とか「キリスト教」とか「ユダヤ教」とかいう世界において、ついぞ見たこともなければ、聞いたためしもない――ただの一度もありはしない。

むしろ、その真逆にして正反対の、

「我こそは、囚われの民へ神の言葉を述べ伝えるために召されし「預言者エゼキエル」様なるぞ」といった具合の、

大きな大きなカンチガイをされている「偽預言者」様の方であれば、それこそヘドの出るほど耳目にしてきた。

いったい、なにが「カンチガイ」なのか――?

どうして、「偽預言者」であるというのか――?

そのような反駁をする「バカ」がいるのならば、ここではっきりと言っておく、

自分自身を「召されしエゼキエル」であると、認識し、信じこむのは、まったくもって自由だし、結構千万なことである。

さりながら、

エゼキエルは、「囚われの民」の中へ、外部からやって来て、預言するヒーローなんかでは、けっしてない。

もう一度、はっきりと言っておくが、

本物の預言者であり、唯一の生ける真の神の預言者であったエゼキエルは、「囚われの民」の中へ、外部からやって来た偉人賢人傑物英雄…の類なんかでは、けっしてありません。

それゆえに、

よく外国から日本へやって来た「自称・エゼキエル」たちが、おしなべて「カンチガイ先生」をしている理由は、なにをどう間違えてか知らないが、「自分=預言者」であるというゴーマンな思いを、自覚の有無を問わず、その胸の中にひそませているからである。

同様に、

外国で神学を学んで日本に帰って来ましたといった「自称・エゼキエル」たちが、これもおしなべて「トンチンカン先生」をしている理由は、なにをどう学んで来たのか知りたくもないが、「自分=預言者」で「語る相手=囚われの民」というゴーマンな構図を頭の中で思い描き、いささかの恥も知らずに信じこんでいるからである。

律法主義の、教会主義の、聖書主義の一番の「罪」とは、この「語る相手=囚われの民」という、ゴーマンかつマトハズレな妄念こそなのである。

はっきりと言っておくが、

このような「罪」こそが、かつてイエスを裁判にかけて、十字架で殺したのである。


それゆえに、

はっきりとはっきりと言っておくが、

「エゼキエルこそ、囚われの民」である。

なんどでもくり返すが、

「エゼキエルこそ、囚われの民」である。

囚われの民であればこそ、エゼキエルは「どうしてこんな苦しみに遭わされているのだろう」というくらいの血と涙に濡れそぼつ日々を、4章からスタートさせていくのである。

そんな不可解な、理不尽な、悪魔の所業のような苦しみの中で、くり返しくり返し見せられる「希望」こそが、「救い」なのである――エゼキエルのためにも、同胞のためにも、人類のためにも。

いくら聖書を学ぼうとも、「エゼキエル=囚われの民」という認識を、他の何よりも強く持っていないから、「希望」の代わりに、「エゼキエル書は難解である」という嘘をまき散らすハメになるのである。

いくら神の御言葉を語ろうとも、「エゼキエル=囚われの民」という認識を、他の何よりも強く持っていないから、聖書のあらゆる箇所についてゴーマンな読み方に終始し、マトハズレな預言をくり返し、カンチガイ信仰をまきちらし、結果、「人々の前で天の国を閉ざす」ような偽預言者としてのふるまいにしか至らないのである。

それゆえに、

はっきりと言っておくが、

私はエゼキエル書を読むたびに、聖書に出て来る神とは、まったく「人でなし」のような存在だと、

くり返しくり返し、くり返しくり返し、思わされてきた。

だからこそ、この書は私にとって、「本当に苦しい預言書」だと言ったのである。

もし、これまでエゼキエル書を読んでいて、あるいは、「クリスチャン」をやっていて、あるいは、聖書という書物を読んでいて、あるいはまた、ただフツーにこの世界に生きていて――

ただの一度たりとも、「神は人でなしである」というふうに思ったこともなく、感じたこともない人間がいるとしたら、そんな人間は、ただのおバカか、「自分自身の目をもって、神を仰ぎ見たことのない」、似非レビ人や偽預言者の類である。

が、わたしの知る限りでは、まあ、まずもって、そんな「おバカ」か「似非」か「ニセモノ」ばかりが、教会の講壇に立ち、聖書を読み解いたようなしたり顔をして、お説教を垂れ、讃美歌を歌って、といったご活動にいそしんでいる――おそらくは、何千年も、何千年も、そんなふうに、歴史はくり返されてきたのだろう。

だから、最近思うことには、

「イエス様は、私のために、十字架で死んでくださった」

こういう発言を延々と、オウムのごとくだべり続けている人間こそが、かつて「メシア」としてこの地上に降誕したイエスを迫害し、裁判にかけ、十字架につるし上げたのではなかろうかと――。

そして、その先頭に立って、群衆を扇動し、イエスの死刑を駆り立てた者たちこそが、

例えば、私は「囚われの民となった同胞のもとに行き、彼らが聞き従おうと、拒否しようと、『主なる神はこう言われる』と言いなさい」という「召し」を受けました…!

などとのたまっている「自称・エゼキエル」たちなのではなかろうかと――。


だってそうではないか。

もしももしも、お前が本当に「エゼキエル」であるというのならば、

「私の教会は、文化庁認証の宗教法人である」とか、「私の教会は、わずか〇年で、どんどん大きくなって、信者の数が増えました」とか、「私のお金も仕事も健康も家族も、神によって守られ、祝福されているのです」とか、「親もクリスチャンになりました、子どもクリスチャンです、結婚相手もクリスチャンで、孫もクリスチャンです」とか、「クリスチャンライフって楽しいし、聖書ってこんなにも面白い!」とか、

――そんな、現し世の、たまゆらの、ノンクリスチャンでも信じて追い求めているような、うすっぺらな「達成」や、儚げな「幸福」や、スカスカの「言葉」なんかではなく、

本物の預言者エゼキエルのように、

公衆の面前で、

牛糞でパンを焼いて、食べて、見せてみよ。

広小路のただ中にあって、

自ら髪をそり落として、三分の一ずつを取って、不可解なパフォーマンスを、して見せよ。

あまつさえ、

これから国に起こるべき「神の一撃」を、「自分の妻が死ぬ」という自分の身の上に起こった不幸によって表現し、「嘆くことも、泣くことも許されず、喪にも服することさえ許されずに、声をあげずに悲しみ…」という預言をば、してみせよ。

それでもなお、

それでもなお、「神は人でなし」などでは決してなく、

「イエス様は私のために死んでくださった」と、

オウムのごとく言い続けられるのならば、

その様を見つめてはじめて、お前が「本物の預言者」か、ただの「おバカ」か、判断できるだろうから…。

お前が神学を学んだ学校や長老やの前だとか、お前の教会の信者の数が増えているだとか――そんなおしゃべりは、どれもこれもちゃんちゃらおかしくて聞いてられねぇ、そんなアーメンは「糞で焼いたパン」にすらならねぇよ…。


それゆえに、

もう一度、はっきりと言っておくが、

「エゼキエルは、囚われの民」である。

「甘い蜜のような巻物を食べて」しまってからというもの、エゼキエルの人生それ自体が、「預言」となってしまったである。

「侵略と捕囚によって、すべてを奪われてしまうユダヤの民の未来」の、預言となってしまったのである。

だからこそ、「牛糞でパンを…」というような恥辱ばかりか、「妻を殺されて…」というような「嘆くことも、泣くことも許されない」ような人生をば、主なる神によって、強制的に、背負わされるのである。

まるでまるでイエスの十字架のような苦しみが、預言者自身の人生をもってて表現され続けるのである。

――こんな苦しい預言が、どこにあるのだ? 

これほどまでに苦しく、不可解な預言だからこそ、「聞こうが聞くまいが、神の言葉(出来事)として語れ」と、言われたのである。

――そんなフザケタ預言が、理不尽な人生が、この世のどこにあるというのだ?

クリスチャンライフが楽しいだ? 聖書ってこんなにも面白いだ?――豚以下の寝言ならば完全に寝てから言ってくれや…。


さりながら、

聖書の神とは、

そういう神である。

「イエス様は、私のために死んでくださった」――だけではない。

聖書に登場する神は、身も心も人生も、一瞬で破壊し尽くしてしまうような、本当に本当に、本当に本当に、恐ろしい神なのである。

神が見せる「裁きの顔」ほど、恐ろしいものは、この世にない。

「神の裁きの顔」に比べたら、悪魔の顔など、ただのヨーチな演技である。

「神の裁きの顔」を、聖書の中ではなく、自分の人生で体験したいと思う酔狂なんか、どこにいるだろうか? エゼキエルだって、そんな頭のイカレタ物好きなんかではけっしてなかった。

それゆえに、私は口が裂けてでも、エゼキエル書の「聞こうが聞くまいが、囚われの民のところへ行って語れ」という言葉によって、「召し」を受けただなんて言えはしない。

そんなことをば、うっかりでも口にしてしまったならば、自分はエゼキエルのような苦しい人生をもって、「預言」することもいとわないということを、神に向かって、宣言しているようなものだから…。


しかししかし、

もしももしも、

「甘い蜜のような巻物」を、ついうっかりにでも、すでに「食べてしまった」のであれば、

その人の人生それ自体が、「預言」となってしまう。

私にとってエゼキエル書が「本当に苦しい預言書」であるのは、私もまた、「食べてしまった」からである――それも、右も左も分からなかった若き日にあって、神自身によって言葉たくみに騙された挙句のはてに、「口に甘い蜜のような」それを、食わされてしまったのである。

ああ、聖書とはいかに恐ろしい書物にして、主なる神とはいかに人でなしの神であらせられることか…!

食べろと促されて食べてしまったが最後、この世でもっとも恐ろしい、「神の裁きの顔」を、自分の目をもって見つめ、自分の人生をもって経験しなければいけなくなってしまうのだから…!


だからこそ、

そんな「恐ろしい経験」をばろくすっぽ知りもしないくせに、宣教学校を卒業した程度の経験ふぜいをもって、「エゼキエルごっこ」していれば、祖国においてリバイバルが起こると思い込めるなんて、本物のバカか、トンチンカンか、カンチガイヤロウの所業である。

それらよりも罪深い、「偽教師」や「偽預言者」のふるまいである。

「本物のエゼキエル」とは、

「神の裁きの顔」に打ち勝つ「神の憐れみと慈しみの顔」を見たことのある人間のことである。

「インマヌエルの顔」を、すなわち「イエス・キリストの顔」を、自分の目をもって見ようとする者のことをこそ、示唆しているのである。

そう、聖書なんかの中だけでない――自分の人生という、苦しみに満ちみちた「預言書」の中においてこそ。

それゆえに、「本物のエゼキエル書」とは、「苦しみの書」であると同時に、それ以上の「希望の書」なのである。

自分の人生においてくり返される、まるでエゼキエルのような苦しみの中にあっても、

なんどもなんども、なんどもなんども語られ、見せられる「希望」があるのであれば、

それこそが確実な「預言」であり、必ず起こる「救い」なのである。

自分のためにも、同胞のためにも、人類のためにも。…




つづく・・・


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