わたしは主である ⑥
6.永遠の再会
私は、私に与えられた「信仰」によって、確信している。
かの審判の日にあって、
すべての人間は、シナイ山の前に立たされて、登って来ることを命ぜられる。
なぜなら、そう、「わたしは主である」から。
そして、
私のように「信仰」というしるしを与えられた者は、
神の裁きの山、シナイ山に留まることなく、
かつてのイエスのように、その頂を「通り過ぎて」、
もうひとつの山、すなわち、
憐れみの山、ピスガの頂(ネボ山)に登ることを、命ぜられるのである。
なぜならば、そう、「わたしは主である」から。
また、なぜとならば――
この、神の憐れみの山、「ネボ山」こそが、イエス・キリストの再臨の地であるからである。…
はっきりとはっきりとはっきりと言っておくが、
「シナイ山」には、すべての人間が登らなければならない。
がしかし、
「ネボ山」に登れるのは、ただひとつ、「信仰」というしるしを持った者だけである。
「信仰」とは、イエス・キリストの父なる神から与えられる、文句なしの愛情のことであり、イエス・キリストから遣わされた聖霊のことであり、キリスト・イエス自身のことである。
それゆえに、
その者のどんな者であったとしても、
「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」と言った神と同じ神から、
「憐れみの山へ登れ」、と言われるのである。
その者のどんな者であったとしても――肉の割礼があろうがなかろうが――教会のバプテスマを受けたことがあろうがなかろうが――いっさい関係がない。
なぜとならば、そう、「わたしは主である」から。
「ネボ山」に登らなければ、モーセも私も、「わたしは主である」という神の言葉の真意を、真理を、奥義を、知ることはけっしてなかった。
その真理とは、すなわち、
神の憐れみは、神の裁きに打ち勝つということである。
その奥義とは、
イエスが十字架にかかって死んだことが「神の裁き」であれば、キリストが死者の中から復活させられたことが「神の憐れみ」である、ということである。
それゆえに、主なる神の御名とは、
イエスはキリストであり、キリストはイエスである、ということである。
だから、モーセは涙を流した。
涙で目から鱗が落ちて、涙でかたくなな心からすべてがとけて、流れて、消えた。
彼の目は開き、心は開かれたのである。
そうして、荒野の旅のはてに、ついにヨルダンの向こう側へ渡っていくことを許されなかった「神の裁き」こそが、実は「神の恵み」でもあったことを、はっきりとはっきりと悟ったのだった。
なぜなら、
あの時、もしもヨシュアたちと一緒に「ヨルダンの向こう側」へ渡って行ってしまったならば、
堕落と破滅の未来が待つばかりの「ヨルダンの向こう側」へ渡って行ってしまったならば、
モーセは永遠に、「ネボ山」の頂に登ることがなかったからである。
「ネボ山」に登ることのなかったならば、どうして、憐れみの神である、イエス・キリストに、「もう一度、あいまみえること」ができただろう――!
ピスガの山頂にあって、モーセは乳と蜜の流れゆく地、美しいレバノン山を一眸のうちに収めた。
その時、世にも不思議な陶酔感とともに、荒野の旅の記憶が心によみがえった。
そして、昼は雲となり、夜は炎となり、飢えた日は天のパンとなり、渇いた日は岩の清水となり、――そんなふうにして、いつもいつも共にいてくれた神こそが、インマヌエルのイエス・キリストであったと、はっきりと悟ったのだった。
「わたしは主である」という神は、世にも恐ろしい裁きの神だった。「わたしは主である」からこそ、「文句なしの裁き」が下されつづけた。
さりながら、
その恐ろしい裁きの神はまた、憐れみの神でもあった。「わたしは主である」からこそ、恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れんでくれる――たとえその者が、いかにかたくなな心をし、いかにとらえがたく病んでおり、いかに割り切れない思いをば、神に対して抱えていようとも。
「わたしは主である」
それゆえに、
「わたしはお前を憐れむ」
――この「文句なしの憐れみ」こそが、わたしは主であるという、わたしの神イエス・キリストだったのである。
だから、モーセは祈ったのである。
死にゆく自分のために、
そして、
すでに死んでしまったすべての民のために――。
モーセは今はっきりと悟り、心に信じた。
この「ネボ山」の頂で、イエスが自分に示してくれた「憐れみ」だけが、生きている人間も、死んでしまった人間をも、救うことのできる神の力だと。
自分は、この時のために、この祈りのためにこそ、まだ生きているのだ、と。
この時のために、この祈りのためにこそ、自分は生まれ、生かされ、生かされつづけて来たのだ、と。
だから、モーセは祈った。
かつて、シナイ山のふもとで、まつろわぬ民のために、命をかけて神の怒りをなだめようとしたように、
ネボ山の頂で、モーセは自分と、死んでしまったすべての民のために、「とりなし」を祈り求めたのだった。
はっきりと断っておくが、
以上のようなことは、聖書にはひと言も書かれていない。
また、私以外で、同様の事を言ったり書いたりした人間を、私はただの一人も知らない。(もしも読者諸氏において知っているという人がいたら、ぜひ教えてください。)
そもそも、『申命記』の結びの文章を見てみても、
―― イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、 彼をエジプトの国に遣わして、ファラオとそのすべての家臣および全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行わせるためであり、 また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった。――
このように「モーセ五書」は結ばれているのだから、
だから文字通りに、原語に忠実に、マジメにマジメにキマジメに聖書を読んだ結論として、
私の言っていることなどすべて間違っている――
そう言いたければ、言えばいい。そして、そう思ったのならば、こんな文章のことなど、きれいさっぱりと忘れてしまえばいい。
がしかし、
よしんばそのような意見の方が真実であったとして、それがなんであろう。
もしもネボ山の頂にあって、モーセが祈っていないというのならば、
今日、自分の人生において、ネボ山の頂にある私が、モーセの代わりに祈るばかりである。
荒野の旅路で死んでしまった、すべてのユダヤの民のために、私がモーセの代わりに、私に与えられた信仰によって、イエス・キリストの父なる神へ、「憐れみ」を祈り求めよう。
私はこのように言うことによって、いかなる「人」に自らを推薦しているわけでもなく、
いかなる「人」から認められたいわけでもなく、
いかなる「教会」のように「新しい信者」が欲しいわけでも、
「献金」がもらいたいわけでも、
「福音を宣べ伝えた」などという実績が欲しいわけでもない。
――ただ、
そういう人々が、「イエス・キリストは私たちの神であり、主である」などとのたまうならば、
気が変になったように叫びあげよう、「わたしの神」こそイエス・キリストであり、「わたしの父」こそイエス・キリストの父なる神であり、「わたしの友」こそキリスト・イエスである、と。
なぜとならば、
かつてモーセが、信仰によって、ピスガの山頂に登ったように
私もまた、今日、信仰によって、わたしの人生において、「文句なしの憐れみ」の山である、ネボ山の頂に立っているからである。
その場所で、顔と顔を合わせて再会した「わたしの神」、「わたしの主」、「わたしの友」こそ、懐かしいイエス・キリストであるからである。
イエス・キリストが、永遠の大祭司として座している場所は、「憐れみの山の頂」だった。
それゆえに、
私はその場所でひざまずき、
自分のために――
自分の真の同胞のために――
自分の真の家族と真の友人のために――
イエス・キリストを死者の中から復活させた「憐れみ」と、同じ「憐れみ」を、祈り求めたのである。
そして、その祈りは、憐れみ深き父なる神のもとに届き、聞き入れられた。
なぜなら、
その時の私の「言葉にならない祈り」をもって、父なる神のもとに届けてくれたのは、「イエス・キリスト」だったということを、信仰によって、私は知っているから。…
それゆえに、
かつてモーセが、ピスガの山頂にあって、その目をもって見つめたものとは、ヨルダンの向こう側の、乳と蜜の流れる土地や、美しいレバノン山なんかではなかった。
彼が見つめたのは、「真の約束の地」であった。
死にゆくモーセに与えられた「神の最後の憐れみ」は、「永遠の命」だったのである。
同様に、
私が、私の人生において登ったネボ山の頂にあって、自分の目をもって見つめ、自分の耳をもって聞き、自分の心の中に留めたものとは、「神の憐れみの顔」であった。
神の憐れみの顔こそ、イエス・キリストの顔であった。
だから、かつてネボ山の頂で、「やっぱりお前もヨルダンの向こう側へ渡らせてやろうか」と問われた時、きっぱりと神にむかって「いいえ」と答え、清清しい笑顔をもって、モーセと神とが微笑み合ったように、
私もまた、この地上における「ヨルダンの向こう側」などへ渡ることをば、きっぱりときっぱりときっぱりと、断った。
そんな所は、イエス・キリストが住む場所ではけっしてなく、イエス・キリストが帰って来る場所でも、けっしてないのだから。
そして、その時、
モーセのように、「いいえ」と言い、
清清しく笑ったわたしにむかって、
イエスもまた、何も言わずに、微笑んだ。…
わたしは言った。
「わたしは命の限り、この場所にとどまります。
なぜなら、ここがあなたの住む場所であり、あなたが帰って来る場所だからです。
わたしは、ここで、あなたが帰って来るその日まで、
あなたと再会できるその日まで、あなたの帰りを楽しみに待っています。」
そう言って、もういちど微笑んだわたしに向かって、イエスはやはり、なにも言わなかった――ただ、わたしを愛おしそうに、見つめながら。
口元をゆるめたばかりの、静かな微笑は、きっとわたしにしか分からないような、ささやかな変化でしかない。
それでも――
ああ、この顔だ…
と、わたしは思った。
わたしは、このようなイエスの笑顔を見るために、生まれて来たのだ、と。
そして、涙に濡れたわたしの微笑みが、わたしがイエスにしか見せない顔であるように、
イエスが見せた静かな微笑みも、この世でただひとりの、わたしにしか見せないイエスの顔である、と。
そして、
「わたしの友」イエスの笑顔は、さながら満開の桜のように佳美しい「永遠の風景」であり、
「永遠の命」として、わたしの中に生き続け、
わたしもまた、その「永遠の微笑」の中で、永遠に生き続けるのだと。
イエスはわたしの名を呼んだ。
わたしもイエスの名を呼んだ。
わたしたちは、互いの名を呼び合った。
なんどもなんども呼び合って、朝を迎えた。
それは、もはや二度と夜を迎えることのない、「永遠の朝」であった。…
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