世界は「問い」を待っている
※以下に掲載しているのは、2024年8月に青土社より刊行される田村正資著『問いが世界をつくりだす:メルロ゠ポンティ 曖昧な世界の存在論』冒頭の抜粋です。書籍情報はこちらのリンクからご覧いただけます(http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3956)。
はじめに
僕の人生のもっとも古い記憶は、おそらく三歳の頃のものだ。ゲームボーイと『ポケットモンスター』を買ってもらって、カタカナを覚えながら遊んだ。最初は「レポート」機能の使い方を知らないために、毎回「はじめから」プレイしていたのだが、それを不思議だとも感じていなかった。
いまの僕には、それよりも古い思い出を遡ることはできない。遡ることができないからといって、単に忘れてしまったのだと言ってよいものだろうか。それよりも、記憶として定着することのない現在を生きていた、とでも言ったほうがよいだろうか。いずれにせよ、自分がはっきりと意識できる生の輪郭はとても曖昧でぼやけている。三〇歳を過ぎたいまでも、僕の知覚を通り抜けていったことのほとんどは記憶に残らない。自分の人生というとなにか確固たる私だけのものがあるような気がするけれども、僕が自分の力で振り返ることができるのは、生きてきたはずの年月に比べたらほんのわずかなエピソードだけだ。そんな断片的でまとまりのないエピソードであってもリアルなひとつの人生を形作っているように思えるのは、それらがひとつの世界のなかで営まれていて、その世界が背景として私たちの生を支えているからだ。小さい頃の写真や絵日記。小火(ぼや)が出て焼けた実家の床。中高生の頃に乱読した小説が収められた本棚。そういったものが、自分があるひとつの人生を歩んできたことを裏付けてくれている。
私たちの記憶の不在は、こうやって世界が埋めてくれる。しかし——少し変な言い方になるが——世界は私たちの過去だけではなく、現在の不在も埋めてくれている。私たちは、自分の知覚を通り抜けていくものを憶えていないだけでなく、その多くを意識すらもしていない。いつものように家を出て職場へ向かうとき、玄関にまとめておいたゴミ袋を持ち、家の鍵を閉めて、ゴミを出したら最寄りの駅まで歩いていく。この一連の動作をスムーズにこなしたあなたは、職場に向かう電車のなかでふと「あれ、ゴミ出したっけ?」「あれ、家の鍵閉めたっけ?」と思い起こす。「やった」感じを思い出せない。でも、いつもの調子でやっているはずだけど……。私たちの意識はたいていこんなものである。それでも、いつもと同じようにゴミを出して、鍵を閉めている。私たちがこんなふうにやっていけるのは、世界がそこに実在していると信じているからだ。僕が見ていなくても、覚えていなくても、世界がそこにある。だから私たちは、自分の習慣になっていることほど、自分の意識の背景に追いやって、世界に寄りかかることができる。
私たちはいろんな仕方で世界に「寄りかかって」いる。僕が何かを見つめているとき、つねにその背景にはぼやけた曖昧な領域が広がっている。ぼやけた領域にあるはずのものたちは、僕の意識から退いている。しかし、メルロ゠ポンティの言葉を借りるならば、このものたちは意識の地(背景)となることによって、いま僕が見ている図(対象)の経験を支えている。私たちの世界の経験はこんなふうに、自分と対象の周囲に広がる環境に支えられている。
そしてこの環境のさらに背景には、見果てぬ世界が広がっている。この世界は、私たちの生を超えている。私たちはこの世界のすべてを見通すことはできない。私たちは、つねに「いま・ここ」、すなわち自分のパースペクティヴからしか、世界を生きることができない。たとえ僕が必死に動き回っても、あるいは永遠の命を手に入れたとしても、世界のすべてを見聞きしたりすることはできない。
自分固有のパースペクティヴからしか世界を経験できないことは、私たちの欠陥ではない。むしろ、それは「世界の経験」が本質的に備える構造なのである。世界とは、決して見果てぬものとして背景に退きながら、具体的なものの経験を生じさせる、それ自体としては曖昧な領野なのだ。このとき、この世界が曖昧だということは、文字通りの意味で言われている。世界のなかに何があるか、何が見出されるのかは、世界と私たちの関わり方によって決まってくる。私たちがこの身体で、自分たちの関心から問いかけなければ、この世界には何も現れてこない。だから、ある意味でこの世界で私たちが見出すすべてのものは、私たちの発明である。世界にはもともとそのいずれも存在しなかった。それらは、ただ曖昧な領域だった。問いかけられることによって具体的な在り方を発現させる、このような在り方をメルロ゠ポンティという哲学者は世界の「試問的(しもんてき)な様態」と呼んだ。
試問的な世界というアイデアは、ビデオゲームの世界をモデルにしたほうが理解しやすいかもしれない。ロールプレイングゲームの世界は、その世界にやってきたばかりのプレイヤーにとっては無意味なオブジェクトで溢れている。通れない道、越えられない壁、何をしても反応しない謎の構造物。しかし、ゲームを進めているうちにプレイヤーが新しいツールや新しいアビリティを獲得することで、世界の見え方が一変する。冒険できるフィールドが広がって、動かしたり、使ったりできるものが増えていく。虫メガネをもらった子供が手当たり次第にいろんなものを覗き込んでみたくなるように、プレイステーション版の『モンスターファーム』(註1)を遊んでいる人が家中のCDを読み込ませてみたくなるように、新たなツールやアビリティ、視点を獲得することで、それまで意味に乏(とぼ)しかった世界が、いまや私がいろんなことを試してみたくなる世界になる。
もちろん、ゲームの世界に何が存在していて、私たちが何をできるのかは極めて厳密に設定されている。では、私たちが生きる現実の世界はどうか。現実の世界は、ゲームの世界以上に、自由度が高い。それまでできなかったことができることを楽しみ、それまでになかった表現に心を震わせ、それまで世界になかったものの登場に驚嘆する。世界は、私たちが新しい「虫メガネ」を獲得するたびに新たな様相を見せる。世界は、私たちの「問い」を待っている。
では、この世界はゲームの世界と同じ意味ですべてが厳密に設定されていると言えるだろうか。自然科学の発見や人文科学の発明によって世界の様相が一変するとき、その世界は私たちがそれを知る以前からそのようなものだったと言ってよいだろうか。世界がそのようなものとして経験されることが、あらかじめプログラムされていたと言えるだろうか。この世界と私たちの生のあいだには、一方的ではない、奇妙な共犯関係があるのではないだろうか。
この本では、世界と私たちのあいだにある、当たり前だが不思議な関わりをメルロ゠ポンティとともに記述していくことになる。この世界のなかで対象を見ること、この世界のなかで行為すること。それらの活動はいったいどんな意味を持つのか。私たちは、どんなふうにそれらの活動をうまくこなしているのだろうか。なるべく身近なテーマを織り込みながら、メルロ゠ポンティとともに考え抜こうとした。
本書は、筆者が二〇二三年に東京大学に提出した博士論文に全面的な加筆・修正を加えたものである。メルロ゠ポンティは僕にとって、とてもバランスのいい哲学者だった。考えてみれば当たり前のことを流暢に論じることに長けていて、読んでいて「うんうん、わかるわかる」と納得しながら読むことができるタイプの哲学者だ。そんなバランスのいい哲学者のなかで、僕がもっとも「本当に?」と違和感を抱いたのが、「世界は試問的な様態で存在する」というテーゼだ。そしてこの本は、このテーゼを解明するために書かれた。当たり前のところから出発して、ゆっくり着実に歩みを進めていたはずが、いきなり変なところに迷い出てしまう。どうしてこうなってしまったのか、メルロ゠ポンティ以外の人たちの力をたくさん借りながら、自分なりに論じてみた。筆者の実力不足からわかりにくくなっているところ、意味がわからないところもあると思うが、ぜひ、いろんな事例を思い浮かべて、問いかけながら読んで欲しい。
なお、博士論文の段階で周囲の人たちに読んでもらったときは、第五章の評判が一番よかった。特に哲学を専門としない人たちに好評だったので、現象学やメルロ゠ポンティといったトピックに 馴染みがないという人には、第五章から読んでみることをオススメする。
(註1)このゲームの最大の特徴は、プレイ中に音楽CDなどを読み込ませることによって、自分が育てるモンスターを誕生させることができる「円盤石再生」システムにあった。
田村正資『問いが世界をつくりだす:メルロ゠ポンティ 曖昧な世界の存在論』の目次を含む詳細はこちらをご覧ください(http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3956)。
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