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呪いと御札

紙などといった契約を結ぶ物を媒介として約束事をするという事実は呪いではなく御札であると思う。
言葉というのは言霊というように非常に大きな力があり、言霊が全てではないが死ねと言われ続ければ死ぬ人間だって世の中にいる。そういった言葉は力を持つと同時に酷く曖昧で、時間という波が押し寄せてくればくるほどに忘れ去られていく。そして確証といったものさえも無くなり誰が覚えているかも分からないそんな不安定なものへと移り変わる。ならば、契約書などというのはなにかを媒介として言葉を紡げば、そこに残りうるものだろうとそういう話ではないかと思っている。

婚姻届を例にあげてみよう。婚姻届は愛し合った2人の人間が、病める時も健やかなる時も互いに助け合い今という過去と未来を生きていく為に必要なもののひとつである。もちろんそうでない例もあるが今回は婚姻届を記入する例として。婚姻届ひとつはただの紙切れだと言い張れるかもしれない。が、しかしそれを言葉に残すだけの行いならどうだろうか、たしかに今も婚姻届は書かなくても一緒にいられることはあるしそういった方々も多い。でも今私が言っているのはそういう事実ではなく、この契約自体を紙というひとつの媒体を通さずして行われる契約のことである。例えば口約束で続けた婚約が今後離婚などといった形になった時に誰かが呪いの枷などというならば、自らその枷を付け、自ら呪いと言い放ちただ醜いだけであるだろう。そしてそこに御札もないのなら、誰もその呪いを止められず醜いまま、言霊という力強く残るものに後をひかれ先を進む場合もあるのではないか。別にそれもまたひとつの選択であり、悪い悪くないのはなしではない。そういうことが言いたいのではなく、ただそういった契約といったものをなにかを媒介として置くことでそれが呪いの制御、いわゆる御札になりうるのではないかという話だ。


簡単にまとめるならば、傍から見れば契約書という呪いや枷も、また誰かを守ったり、制御するためのひとつの御札のようなものであるとそう言いたいだけである。口約束ひとつで婚約をし、たとえば片方に逃げられたりなどすれば、その先は暗転だったり、別の人生を生きていく可能性さえある。それもまたきっと呪いなのではないだろうか。

拙い文章で考えが纏まっていなけれど、突発的な感情に身を任せて書いた為許して欲しいなと。今でも書いていて、じゃあここは〜といった自分の中での意見が沢山溢れていて脳内会議もままならない。軽く呼んでくれると嬉しい。それだけ。

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