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AAR?コントローラーを子どもに?

先日、勤務校のパートナー校(小学校)の全校研に助言者補助として呼ばれたのだが、授業後の討議ではもっぱら【AARだから…】という言葉が飛びかっていた。

小学校は今年度、教科書が改訂された(中学校は来年度)。そのタイミングで、札幌市がAARを大きく打ち出して「学びは子どもがコントローラーを持つことが大切だ」という考えを教師に持たせようと、まずは小学校で普及させようとしている。

しかし、議論では、現場の先生方が「AARだから教師側は〜〜ができない」といった「縛り」「不安」「窮屈さ」を多く漏らしていた。

僕はAARだからといってやり方を大きく変える必要はないし、もっと言えば子どもに主導権を奪われる必要もないと感じる。コントローラーを持っている子どもたちを大人が上手にコントロールすることが問われているのではないだろうか。

授業における学びのコントローラーは確かに子どもが握るが、ゲームを選ぶのもコントローラーにどんな機能を実装させるかも、結局は大人のやることだと思う。キャラを選んだり話し合った結果コントローラーの機能を交換したりするのは子どもどうしで行ってもいいんだが(それが自己調整なんだが)、ゲームがつまらないとか、コントローラーのボタンが乏しいとか、そうした状況ではそもそも活動としては子どもに機能しない。

何ならゲームには最初にチュートリアルもあるし、プログラムに問題があったらバージョンアップのダウンロードを行うこともある。

こうしたことを大人がやるんだという構えを持つと、かえって子どもに気を遣いすぎない。

むしろ、AARだから単元のどこであっても教え込んではいけないとか、一度子どもが単元計画を決めたら大人が恣意的に変えてはいけないとか、そうした過剰な窮屈さを感じないで済むと思う。

ここから先は研究会では言わなかったが(小学校の校長には言ったが)、何より、教材研究をしっかりやって一斉指導をしっかりできる人間はAARにも移行できる枠組みをすでにもっている。
しかし、AARから入り、それを重視してこの先進んでいく人に、教材を理解して子どもの深い学びを想定することはなかなか難しいのではないか。そういう視点ももってAARに挑まないと、この先15年後くらいに痛い目見そうな気がする、札幌市。

国語科では、ということですが…他教科はわかりません。(笑)
来週も小学校の全校研の助言者。来週の午後はほぼ勤務校にいない。自校に迷惑をかけている気がしてくる。

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