《散文》マスクが外せるようになるまで
コロナ前、外出中はなるべくマスクをしていたかった。
花粉の症状が重いわけでもなく、ただ人に顔を見られるのが憚れた。特に十代の頃がひどく、道で誰か見知らぬ人とすれ違うだけで身体を刃物で切り裂かれるような感覚だった。今思えば一種の心の病だったのだと思う。
慣れた人とならマスクがなくても話せたが、とにかくマスクをしてようやくそうではない人たちと同じ出発地点に立てた気がした。自意識過剰といってしまえばそれまでだが、どうしても逃げることのできない感覚に悩むことが多かった。
大学を卒業する頃には自然とそういった特性は目立たなくなったが、程度は小さくともどこかでやはり世界との折り合いがつきづらかった。
世渡りの真似事のようなことをしつつ過ごしていたが、そんななか世界ではコロナが流行した。すると、人々はマスクを着用し出し、社会全体でもそれは当前のことになっていった。
もともとマスクを使っていた私はこの状況にある意味ホッとした。マスクをしてもいい、むしろ着用することが是とされるのだ。
2022年春頃、私はコロナに感染した。あまり外に出ることもしなかったのに、当時軽い逆流性胃腸炎にかかった直後で免疫が落ちていたこともあってか、かんたんに罹ってしまった。高熱と喉の痛みによる苦しみを味わい、二度となるまいと誓った。だから世の中にコロナが流行してよかったなどとは微塵も思わない。
でも、流行によって変わった世の中ではそれに適応して変化していくものがあるのも事実だ。仕事もリモートワークに切り替え、できる限り人に会わず家にいることが良しとされていった。そうした状況は、元々人と会うことが好きな人にとってはつらいことだったと思う。しかし逆にインドア寄りの人にとっては、自分たちの特性に沿った暮らしが推奨されることになった。流行前はどこか否定されがちだった生き方が、流行後には受け入れてもらえた。むしろそれが正しいとまで言われるようになった。その後、流行が収まりリモート勤務が解除されていく動きはあったものの、リモートにしてもいい、家にいることが全く悪ではなくなったという感覚の変化は社会にとっても大きなものだったと思う。
そして、2022年後半からはもうマスク着用も個人の判断に任されるようになり、マスクをしない人も増えていった。
この段階になって私にある小さな変化が起きた。
コロナ前からずっと手放せなかったマスク。つけていないと不安でできるだけ外にいるときはつけていたかったマスク。それを着用せずとも普通に外を歩き、生活が出来るようになった。誰かとすれ違っても全身切り裂かれるような気分にもならず、明らかに人の目が気にならなくなっていた。これはなぜかと自分でも不思議だった。人に話しても首をかしげられる。
世界中が一度マスクをした時点で自分と足並みが揃った、という意識だろうか。「もともとマスクをつけないのが普通で自分だけ外せない状況」と、「もともとみんなでマスクをしてみんなだいたい同じ時期から外した状況」でこんなにも違う。
別にこの謎に答えはないのだけれど、マスクを本当の意味で外せたのはコロナ流行という環境下だったからということに変わりはないように思う。
今では好きなとき、必要なときにマスクをし、外せる。誰かにとっての当たり前を実行することができてうれしい。
古屋朋