第一詩集『ひとつゆび』を出版するまでのこと
はじめに
今これについて書かなければいけない、となぜか思ったので書こうと思います。きっと第二詩集出版のことや、第一詩集から第二詩集の間のこともまた別で書くかもしれません。
第一詩集を出版するまでのことを書くには、まず詩との出会いやいつから書き始めたのか、という部分は必要かと思うのでだいぶさかのぼりますが小学時代から語ります(長くなりそう!)。
詩との出会い、詩の力
確か小学四年生か五年生のころ、授業の一環で一人一つ詩を書くように言われました。
私が書いたのはさくらの花についての詩で、タイトルは「ふわり」だったような気がします。この「ふわり」という単語を一度も詩のなかに入れないで書こうと当時思ったことは覚えています。
クラスメイトみんなが詩を書き終えると、詩は廊下の掲示板に貼りだされていつでも見られるようにされました。貼られてしばらくしてから授業参観の日が来ました。私は当時ある子からいじめられていて、少しずつ人を疑うということを覚えだす時期だったのですが、そのいじめっ子(以降Aとする)のお母さんも参観日に来校していました。自分の母のもとへ駆け寄り母を盾にするような形でAとそのお母さんの姿を見つめました。Aのお母さんはふと掲示板に目をやると、貼りだされたみんなの詩をゆっくり読んでいきました。そして、そのなかのひとつに目をとめて「これいいね」と言って指をさしました。私の書いた詩でした。
そのときにどこかすーっと心が軽くなったような、それまでのいじめによる鬱屈とした空気が晴れ渡っていったように思えました。詩の力といったら仰々しいですが、確かに何かの力を感じたのです。
しかし、この経験はその後私の中からいったん忘れられ、心の奥底にしまわれることになります。
音楽の詞から詩の世界へ
そこからは色々とありつつも、中学で長編・短編小説を書いたり、高校でバンドにハマり、その歌詞に釘付けになって自分でも小さなブログで詩を書き溜めたりするようになっていきました。断続的ではあるものの文字による創作はし続けていました。そのころの詩は何かを構築していくというよりも、自分の心を治療するようなものでした。必ずしなければ生きていけなくなってしまうようなもろくて壊れやすい詩でした。
対談でも触れましたが、(今思えば)私が現代詩を作品として書こうと意識したのは、このバンドの影響が多大にありました。現代書かれている自由詩の世界ではなく、音楽という方面から詞/詩というものに入って行きました。
そして高校卒業後は文学を学ぶために大学、大学院に進学。
大学ではただただ興味が向くまま近代文学を中心に学ぶ一方で、古典日中比較文学のゼミで卒論を執筆し卒業。怪異や妖怪などの分野にしっかりと触れたのもこのゼミででした。
大学院では小説や詩の方面で今もご活躍されている作家先生たちのもとで創作・評論を学びました。この院での出会いによって、私のなかでさらに詩というものを意識し、次第に詩集を出したいという思いが生まれ、固まっていきました。
第一詩集刊行までの道のり
2016年11月刊行と2019年5月刊行の『ユリイカ』「今月の作品」内で、それぞれ「ひとつゆび」、「とける海」を選んでいただけたことも背中を押されるきっかけでした。
高校時代に書いていたブログはもうそのころにはログインできず読めなくなっていたので、大学時代から書き溜めたものと院に入ってから書いていたものをまとめたのが、第一詩集『ひとつゆび』でした。
自分の中で電子世界と有機的な世界の融合を意識した一冊です。一冊目ということもあって、私という人間のわかりやすい部分を入れたいという思いがあり、かなりエッセイに近いものから、ファンタジー味の強いものまで幅広く入れました。
それまで詩の世界についてまだよく知らず右も左もわからないなか、X(旧Twitter)で第一詩集について触れてくださった詩人の方に出会いました。大波が押し寄せるような喜びがあり、そこからは波が引いてはまた戻るように、ゆるやかに詩の世界へ足を踏み入れられたように思います。
私にとっての第一詩集は詩へのけじめでもあり、きっかけでもありました。
書肆子午線の編集者・春日さんをはじめとする編集者の方々や、表紙の写真を提供くださったカメラマン・manimaniumさんなど、新たな出会いに恵まれて無事に形にすることができました。
それまで現代詩に触れることがあまりなかったのですが、このあたりから次第に今を生きる詩人たちの作品にもっと触れてみたい!と思うようになり、貪るように読み漁っていました。
やはり、人の詩を読むということが詩を書くうえでのエネルギーやきっかけになるのだなと思います。
第一詩集を出すにあたってどこの出版社が良いのか考えあぐねていたところ、大学院時代の恩師が私の詩にも合うからと推してくださったのが書肆子午線さんでした。編集者の春日さんは、いくつか詩の原稿をメールでお送りしたあたりから気づけば担当になっていただいていた記憶があります。
たまたま行動範囲が似ていたこともあり、わざわざこちらの家(今は住んでいない)付近の喫茶店まで来ていただいて、暖かな木材の店内でカレーの香りがするなか、詩について熱心に向き合っていただきました。
夏ですこしジメッとしたなか雨脚が近づくのを店外に感じながら話した空気や、夏の雨のにおいとお店の飲料水の透明さ。すこし丸まった背に秋の酸素を乗せながら会釈された姿も鮮明に覚えています。
詩集を編纂していくなかのちょっとしたことさえも私にとっては詩的で映画的でした。
詩の掲載順の変更や表紙デザインの微調整など、本当に根気強く細やかなところまで気を配っていただきました。
そもそも私にとって出版社で本を出すこと自体初めてだったのですが、丁寧に真摯に向き合っていただいたおかげで何のストレスもなく第一詩集を形にすることができました。
この場をお借りして感謝申し上げます。
おわりに
今振り返ると、詩に惹かれて詩を書いてきたことが、なにか懐かしい船に乗って目的地へと向かうような、とても自然なことだったのではないかと思わずにはいられません。それしか続けられることがなかった、といえばそうなのですが、詩を書くことは自分へ還っていける行為でもあって、そう思えば続けられてきたことも腑に落ちるような気がします。
幼い日からある程度大人になっても生きにくさをどこかに感じていて、それは今もなお薄まりはしつつも心の片隅にひそかにしまってあるような気がします。でも心にひっかかるものがすべてわるいのではなく、そこからあふれ出たものたちをひとつにまとめ、それらに形を与えてやっと人生に一息つけたのだとも思います。
私の書いた詩が私自身をそっと送り出してくれたようで、私にとってある種の通過儀礼のようなものでした。
そして、そこから広がった新しい出会いには感謝してもし尽くせません。
ただ詩を書いていた人間が、その詩を誰かの手に取ってもらえるようになるということは大きな変化です。
ここからさらに詩に対して素直に、楽しく、取り組んでいけた気がします。
詩とは私にとって友であり治療であり栄養でもあるのだと思います。
第二詩集についても書かねばならないと思うときがきたらそのときにまた長々と書き連ねるかもしれません。そのときもまた良ければ読んでいただければ幸いです。
では、今回はここまでお付き合いいただき本当にありがとうございました!
古屋朋