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我流に和歌鑑賞〜「ゆる言語学ラジオ」ビジュアルシンカー回を聴いて〜

 しばし自分語りをば。

 YouTubeチャンネルあるいはポッドキャスト番組「ゆる言語学ラジオ」が好きなのであります。半年弱前に偶然知ってからというもの聴き狂い、夢中なのであります。
 最新回は、定期的に投稿される言語学そっちのけの、読んだ本があまりにも面白かったので思う存分語らせろ!と、喋りまくるシリーズのやつ。当該回の、あまりにも面白かった本というのが以下です。

テンプル・グライディン著、中尾ゆかり訳
『ビジュアル・シンカーの脳: 「絵」で考える人々の世界』

 この本を読んで語り手さんが考えたことなどを聴いて私が考えたことなどを書きます。

 私が理解したところによると、どうやら、人間を2種類に分けるとすれば、何事もグラデーションというのは前提の上、大雑把に、分けるとすれば、言語で思考する人とビジュアルで思考する人(ビジュアルシンカー)とがいるらしいのです。原典未読なので詳くは分かりませんが。
 私は主に和歌について記事で語っていますが、この対立軸を仮説として据えることで、和歌の何が私を魅きつけるのか、少し整理されてきた気がするのです。

 私は以前、こちらの記事で、和歌に心動かされた経験のひとつを回想しましたが、その中で、和歌をどう好きなのか、うまく言葉にできないもどかしさを吐露しました。そしてなんとか捻り出した曖昧な答えの一つに、こう書きました。

「絵を見るのと同じような感覚で…」

と。

あれ?

と。

ビジュアルシンカーやん!

と。

 コネクティング・ザ・ドッツみを、「ゆる言語学ラジオ」ミームで言うところの「コネドみ」を、感じてひとり胸が高鳴りました。
 和歌を見ると、具体的な絵面こそ思い描けないものの、ぼんやりとした心象が心の中に広がるのです。たとえば、百人一首のこの歌。

ひさかたの光のどけき春の日に
しづ心なく花の散るらむ
(33番、紀友則)

 「陽光ののどかな日に、桜の花は落ち着きもなく散るのか」というような意味ですが、私の心の中に広がるのは、あえて言葉にするならば、柔らかく淡い黄色のイメージです。おそらく「ひさかた」や「ひかり」、「はる」の意味や音から来るものでしょう。下の句に詠まれる、桜の花が散る要素は第一印象にはなく、後から意識的に描き足すことになります。
 最初に心象に現れなかった要素は、こんなふうに、イメージの中に組み込むのに少しエネルギーを使います。情報の内容や量が一定の水準を超えると、イメージとして落とし込むためのワンステップを挟む必要が生まれるのです。だからこそ、短い詩は好きだけれど、活字の集合体はあまり得意ではなく、和歌は好きだけれど、古典文学は心の琴線を空振りするのでした。今日のポップ音楽も、歌詞のワンフレーズには感動するけれど、俯瞰してメッセージや物語性を読み取るにはなかなか至らないのでした。そんなこんなの捩れが不可解だったけれど、全部まとめてすっきりしました。

 だから、私が和歌を良いと思うのは、景色を見て、絵を観て、きれいだと思うのと同じです。シンプルだ。

 私は昨今、鑑賞だけでは飽き足らず、詠歌や詩詠に手を染め出しています。これまで無意識にしていたことを、逆再生する行為です。目にした光景や心に受けた印象に、意味、音ともにぴったりくる言葉を貼り付けていく。それがうまくいくと、詩や歌になっている。そんなたいへん愉快な営みなわけですからどうかポエムが痛いなんて言わないで。私も黒歴史にならないよう努めますから。

 と、こんなことを考えまして、あくまで仮説ですが、割といい線行ってる気がするのでして、私にしてはそこそこ筆も尽くしたところでまとめることもなく緩やかに自分語りの文章を閉じます。お付き合いいただきありがとうございました。

 幾度となく感じているけれど、改めて、『ゆる言語学ラジオ』に出会えて良かったです。

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