初めて渡米した時の記憶
弱冠二十歳のクリスマスイブ、初めての渡米は一人旅だった。どのように家族が見送ってくれたのか、覚えていない。北海道のどこの空港から飛び立ったのかも覚えていない。成田空港へどのような経路で移動したかも、覚えていない。どうにかこうにか出国手続きを終えて、太平洋を越えたのは確かなのだが、機内での記憶もない。
LAの空港で乗り換えしたときの記憶はある。当時の私の英語力は高校と予備校で学んだ受験英語だけだった。高校時代、現役で受けたセンター試験のスコアは200点満点中70点弱。一浪して170点弱までスコアアップしたので、英語が理解できるようになった気にはなっていたが、リスニングとスピーキングはてんでだめだった。
チケットに記載された搭乗ゲートで待っていると、英語のアナウンスが流れる。当然、ほとんど聴き取れない。ただ、周りの雰囲気から、自分が乗る便の搭乗ゲートが変わったのだということがなんとなくわかった。サービスカウンターに行ってチケットを見せたら、変更後の搭乗ゲートの情報をチケットに記入してくれた。
やっとの思いで変更後の搭乗ゲートに移動したら、再度搭乗ゲートが変更された。フライトが大幅に遅れているようだった。その状況に呆れた旅行客が、近くにいた私に同意を求めるように英語で話しかけてきた。一言も聴き取れなかったが、雰囲気でわかったフリをして、「Yes」とかなんとか言って、愛想笑いで返したのを覚えている。初めての本場での英会話である。もちろん、その会話が続くことはなかったが、無事LAでの乗り換えに成功し、ロッキー山脈を越えて、フィラデルフィア空港で待つ叔母の家族と合流した。
叔母の家に向かう車の中で、当時2歳になったばかりの叔母の娘、つまり私のいとこは、叔母と私が日本語で話すのが気に入らなかったらしく、「No talk!!!!」と連呼していた。
明るい時間帯に到着する予定だったのだが、フライトが大幅に遅れたため、フィラデルフィアを出る頃には、すっかり日が暮れていた。工業地帯で知られるフィラデルフィアの景色を覚えている。夕闇にそびえ立つ工場の高い建築物のてっぺんから、オレンジ色の炎がかがり火のようにいくつも吹き出していた。
いきなり日本語が通じる親戚と合流するような安全な旅だったが、物心ついて初めて日本以外の国に降り立った私はワクワクしていた。
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