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去年の夏、会社から逃げて長岡花火へ。

そうだ、長岡花火行こう。

決意したのは花火の前日、8月1日の帰り道だった。会社への不信感が諦めに変わったとき、何かがパーンと音を立てて弾ける。もう限界、とかそういうちょうどいい言葉さえ見つけられない。とにかく何かが弾けた。

「行っちゃうか、長岡花火」

思ったときには決断していた。新潟出身なのに長岡花火を見たことがない。「来年こそは」を何回も繰り返していた。「30歳までには」と思っていたけど、30歳を迎えた翌日ついに決意した。それも、かなり衝動的に。

「明日、会社には行かない。代わりに花火見に行ってくる。長岡まで」

帰宅した家族にそう告げた。否定はされないと思っていたけど、やっぱり聞かれた。会社はどうするの? と。会社には、きっともう行かないだろう。逃げるようにやめることになるけれど、会社がわたしの人生の責任を取ってくれることはない。このまま心が死ぬくらいなら、後ろ指刺されたって構わない。それに、辞めたら会社の人たちには一生会うことはないだろう。そんな気持ちだった。家族は戸惑いながらも「いいんじゃない?」と言う。そう言うしかなかったんだろうけど。

翌日、16時前に東京駅に行くと長岡行きの指定席は売り切れていた。でも始発駅の東京なら30分前に並びさえすれば自由席でも座れる。そう知っていたから不安なんてなかった。着いてからどうするかなんて考えてないけれど、まあなんとかなる。長岡駅に降り立ったことなんて一度もないのに、わたしはなぜか「なんとかなる」としか思えなかった。根拠のない自信とは、こういうことを言うのだろうか。

長岡駅ではたくさんの人が降りた。同じ新潟なのに地元とは呼べない長岡に対する変な緊張感さえあったけど、花火のわくわく感のほうが勝っている。ひとりであることは、全然怖くなかった。

そんなことを考えながら駅ビルのCoCoLoでトイレを済ませ、駅を背に会場の信濃川へ向かう。みんなが、同じ方向へ足を進めていた。その流れにさえ乗ればいい。一人で歩いているわたしを気にする人なんていなかった。ぐるり周りを見渡すと、建物の高さが低いと気づく。空が開けていた。川に近づくと、道のあらゆるところに人が座り出している。でもきっと、ひとりならもっと近くで見れる場所があると信じて歩みは止めなかった。

そうして駅から30分くらい歩いて川辺に着いた。花火が始まる直前で、まだ空に明るさが残っている。しばらくすると「打ち上げ開始でございます」のアナウンスとともに、どん、と音がして、暮れゆく空にぱっと花火が開いた。

それからのわたしは、ふらふらと歩きながら大きな花火を見上げた。

アナウンスされる花火大会は初めてで驚いたし、地元でしか聞けないローカルCMの音楽を久しぶりに聞いて懐かしくもなった。時間が経っても変わらないCMに、ひどく安心する自分がいた。わたしは変わりたくて仕方なくて、新潟を飛び出したのに。

歩き回っていたら、たまたま花火の真下で座れる場所を見つけた。そこに腰を下ろす。途中の見せ場「フェニックス」が終わったら駅に向かうと決めていた。最後まで見たかったけど、余韻を楽しんだまま帰りたいと思っていたから。新潟市内にある実家に帰ることも考えたけど、30過ぎた娘が2ヶ月前に入った会社を辞めて花火を見に来たなんて知ったら何て言われるかわからない。それに、その日のうちに帰りたかった。東京に。わたしの住む、コンクリートジャングルの街に。

どん、とお腹に響く音がする。火薬の匂い、夜空に咲く花火。夏だけど、不思議と暑さは感じなかった。さわやかな風が吹く、新潟の夏。

空を埋め尽くすほどの大きな花火を、きれいだと思える自分がうれしかった。わたしはまだ、きれいなものに心が動く。そう自覚したとき、ひどく泣きたくなった。

いよいよフェニックスの時間になる。これが終わったら帰るんだと決意し直して、打ち上げを待った。

平原綾香さんが歌う『Jupiter』の音楽に合わせて、夜空に花火が広がる。音楽と融合した花火の空を前に、一切の雑念が消えた。ただ、美しい。世の中からごちゃごちゃとした嫌な気持ちが、この時間だけは消えているんじゃないかと錯覚する。

長岡花火は、もともと鎮魂の花火だ。空襲で焼けてしまった長岡の、慰霊と平和の祈り。知識はあったけど、平和への祈りを実感するのは初めてだった。

目の前には花火しかなかった。そこには日々のいざこざも、言い訳も、悲しみもない。ただ、美しい花火。聞こえるのは、ジュピターの音楽と花火が上がる音、それと歓声。ただそれだけ。でも、それだけでよかった。それだけだから、よかった。

フェニックスが終わると、じんわりとした温かい気持ちとともに生きることへの前向きさみたいなものを感じていた。帰ろう。東京に帰っても、きっとだいじょうぶだ。会社を辞めたい。でも迷惑になるかも。もっとがんばれるでしょ。――そんなこと、どうだってよくなった。語弊のある言い方なのかもしれないけど、本当にそういう悩みがどうでもよく感じた。きっと仕事なんて、どうにでもなる。すこん、と悩みが抜けた分の場所に久しぶりの「元気」みたいなものが満ちていく。

意外とみんな、フェニックスを見たら帰り支度を始めるようだった。わたしも急いで長岡駅に向かう。花火終盤に向けて駅は入場規制がかかるから、その前に新幹線に乗り込みたい人たちが足を早めていた。

結論から言うと、東京へ帰る新幹線はこの時間空いていた。反対に、新潟方面に向かう人がたくさんいるようすだった。わたしは花火が見える方の窓際席に座る。満席を待たずに、新幹線は発車した。窓の外で流れる景色には、時折花火が見えている。

時間にして3時間ほどの滞在。本当に来てよかった。心が洗われるとはこういうことだと、全世界に伝えたい。でも、なんでもっと早くこなかったんだろうとは思わなかった。2017年8月2日に初めて見たからこそ意味のある花火だったんだろう。本当に、見れてよかった。

* * *

それからのわたしは、結局会社を辞めてフリーランスになった。会社員がよくないとかじゃなくて、そのとき最善だと思った方法を選んだだけ。本来は会社員のほうが向いていると、今でも思うことがある。でもあのときは、会社という組織に疲れ切っていた。

だから、もし毎日に疲れていると話す人がいるなら、騙されたと思って長岡に花火を見に行ってもいいんじゃないかと提案するだろう。

東京からなら往復で2万円ちょっと。午後休を取って、飲み会帰りくらいの時間にも帰宅できる。日常にはいろんな制約があるけれど、たまにはそれをちょっとだけ壊してみてもいいんじゃない? とわたしは思う。もちろん、それは勇気のいることだと、わかった上で。

きれいなものをきれいと思えるよろこびを知った去年の夏を、わたしは忘れないだろう。

今年もまもなく、長岡花火の季節が来る。

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