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雪予報

「今日雪降るんだって」
 朝起きると友人からLINEが来ていた。久しく会っていなかった友人だった。雪の予報の文の前に、東京に来ているが、今日会えないかという内容のメッセージが入っていた。
 天気予報のアプリを開き、今日の気温を確認する。最高気温7℃、最低気温1℃。ここ最近で一番寒い。2月に入り、最近は気温が安定していた。すっかり冬にも慣れ、常に肌寒いが背中を丸めるほどではない。寝巻を脱ぎ捨て、何を着ようか考える。最近は組み合わせを考えるのにも飽き、2、3パターンのコーディネートを回すように着ていた。
 床に蠢いている布の山からヒートテックの極暖とモヘヤのニットを探す。随分と下に埋もれていた。拾い上げてベッドに放り投げる。洗面所へと向かい顔を洗って、コンタクトを入れ、髪を整えてからまた拾い上げる。床に落ちていたウールのスラックスを履き、唯一ハンガーに掛けられていたダウンを羽織り、玄関で合皮の革靴を履く。もう一度予報のアプリを開き、天気を見る。昼前から雪、夜更には雨。今日は大して降らないだろうと思った。

 外に出ると、空気がひんやりとしていた。冬の空気だった。もう2月に入っているのに、今更肌に触れる冷気で冬を感じるなんてなんだか可笑しい。今まで散々寒い寒いと言っていたのに、今初めて寒さを感じたかのようだ。
 少し早い時間に家を出たので、駅まで遠回りすることにした。空はペールブルーで、吐く息の白が青を淡くしているようだった。角を曲がって通りに出るとき、ランニングしている中年の男性とぶつかりそうになった。彼は大袈裟に大回りし、よろけながらこちらを一度も見ずに走り去った。彼の来た方向へと歩くと銀杏の匂いがした。
 いつもの通勤の道へと戻る頃には、いつもの通勤の時間になっていた。駅への階段を降りるとき、傘を忘れたことに気がついた。


 昼食を食べに出かけ、職場への帰り道を歩いていると、ばらばらと雨が降り始めた。傘を持っていなかったのでダウンのフードを被って走った。雨はやけに冷たかったが、雨のまま今日は終わるんだろう、そう思いながらオフィスに駆け込んだ。周りを見渡すと、同じく肩を濡らした何人かがそわそわして、きょろきょろしたりうろうろしていた。雪を待っているのだ。期待と落胆が入り混じったオフィスはなぜか居心地が悪かった。隅の誰も使わないデスクに腰掛け、十分のタイマーをかけて机に伏せた。 


 Kは冷めたコーヒーを置いて立ち上がり、階段の前まで行って磨りガラスの窓を開けた。風が一気に吹き込み、オフィスの気温が下がる。皆がまばらに窓の外を見た。青みがかった暗闇を背景に雪が靡いていた。白いカーテンのように夜景を透かし、また透かされていた。住宅の屋根はほのかに白く染まり、街灯の光は柔らかな円を描いた。子どもたちは大きな声をあげて走り回り、一番後ろの子が足を滑らせて尻餅をついた。Kの部下のMが飛び跳ねて窓際へと走り、動画を回した。と同時に電話が鳴った。

「皆さんは、本日出社されているんですか」
 リモート会議の終わりがけに取引先の主任が尋ねた。祝日でもない月曜日に出社しない理由があるのだろうか。
「あ、そんなになんですか」と上司が聞いた。
 なるほど、雪か。今日そんなにすごいのか。ヤフーのニュースを見ると雪の情報でいっぱいになっていた。関東甲信で大雪、関東広範囲で高速道路が通行止め、秩父で積雪25cm、箱根町でスリップ事故20件…。ニュースはちっとも雪を楽しんでいなかった。そのまま情報をサーフィンしていると、気付いたら会議が終わっていた。Kはすでに帰っており、その他の人たちも帰り支度をし始めていた。
 会議で決まった内容をもとに新たに検討を始め、明後日に使う資料を作っていく。20時を回った時間帯の割に、どっぷりと集中できた。今までの検討が白紙に戻り焦っていたが、案外上手くまとまり手早く片付いた。
 資料の出来に満足し、水の入っていたグラスを洗い、リュックを背負う。電車は遅れてはいるが止まってはいない。周りを見渡すと、オフィスには誰もいなくなっていた。空調と電気を消して階段をそっと降りた。

 電車を降り、駅を出ると雪が強くなっていた。空は重くやけに湿っぽい雲に覆われていた。道路は真っ白になり、靴の跡と車の轍だけが艶やかな黒を露わにしている。夜の光は雪に取って代わられ、のっぺりとした白が夜を明るくしていた。
 じめついた雪は傘にへばりつき、ビニール傘は透明ではなくなっていた。重くなった傘を揺さぶるが、なかなか雪は落ちない。
 笑い声をあげながら後ろを歩く男女に抜かされる。女性が上を見上げて桜みたいだと言った。
 葉の落ちたイチョウは、葉や花の代わりに雪を咲かせていた。枝先に白い雪をつけた木は、確かに桜に見えた。木の足元に目を遣ると、雪の陰に割れた銀杏が落ちていた。ふと行きの道に嗅いだ匂いを思い出した。

 突如、空から降り頻る雪が、道を覆う雪が、屋根や木を覆う雪が偽物に見え始めた。落ちる速度、漂う冷気、その白さ、すべてが何者かによって設えられたものであるかのように見えた。雪は最も鋭くて、無慈悲で、かつ妖艶だった筈だ。
 今日の出来事がすべて夢のように感じる。街頭から逃げ、足早に家へと向かう。
 こんなものが雪なものか、疾く雨に変われ。そう思って足元で踏み固められた雪を蹴った。

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