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戦力外通告2020:上本博紀(阪神)《プロ野球リポート》

※ あくまで、一ファンから見える範囲の選手についてです。事実と異なる解釈が含まれる可能性がある事をご承知くださいませ。

 上本博紀選手を知ったのは、上本選手が大学1年の秋。

 上本選手の出身大学である早稲田大学は、この頃まさにプロで活躍できる優良選手を排出し続ける大学だった。
 1999年藤井秀悟、2001年江尻慎太郎、2002年和田毅、2003年鳥谷敬・青木宣親などタイトルホルダーやメジャーリーガーを生んでいった。

 そして、2004年オフにセカンドの定位置を1年から守り続けていた田中浩康もプロ入り。入れ替わる形で、上本選手が早稲田大学に入学した。

早稲田大学 4年間全試合フルイニング出場

 大学野球は一年からレギュラーで出る事が難しい。三年・四年にレギュラー選手がいると、新入生は配置転換か二番手以降で上級生の卒業を待つこととなる。

 この点で言うと、早い段階でプロ入りが確実視されていた田中浩康が、4年先輩でちょうどプロ入りした直後だった事は、抜群のタイミングであったと言える。

 上本選手は、入学してすぐに二塁手としてレギュラー出場を続ける。
 東京六大学の二塁手ベストナインを5回受賞。
 そして、何より大学四年間全試合フルイニング出場(104試合)を達成。1994年~1997年の慶応大学・高橋由伸以来の全試合フルイニング出場達成となった。なお、田中浩康は一年からフル出場を続けたが、4年秋に左手を骨折し途絶えている。

 プロスカウトからの評価は、ホームスチールを決めたこともある【盗塁走塁能力の高さ】や、【パンチ力を秘めた打撃】だけが決め手ではなかったと考えている。

 それは、高校・大学を通して発揮し続けた【試合に出場し続けるタフさ】と【大舞台に強さ】だ。

広陵高校時代

 大学時代の話は先に語ったが、広陵高校時代も勝負強さを発揮し続けていた。
 広陵高校に入学直後、一年夏に甲子園大会に出場。この頃の広陵高校で、一年夏にベンチ入りする事自体が並大抵の事ではない。
 二年春、甲子園では打率5割を越え、センバツ優勝に貢献。二年夏には、10打席連続出塁を記録した。三年春には、主将で捕手としてもチームを引っ張った。

 そして当時、プロ入りに大切なもう1つのポイントを、上本は既に持っていた。人を引っ張っていく才能だ。

キャプテンシー

 広陵高校で主将を務め、早稲田大学にも主将を務めた。
 共にプロ入りする須田幸太・細山田武史・松本啓二朗を抑えて、主将に指名されたキャプテンシーの高さは、プロから注目される要因の一つとなったことだろう。

 この頃、プロ野球にもキャプテンシーの高い選手はたくさんいたのだが、次の世代が育って来ない事に悩んでいる球団は多々あったはずだ。

 プロスカウトからも様々な評価ポイントを持っていたが、欠点が多いとされていた守備面を度外視してでも、阪神は指名したのは、チームを引っ張っていける人材と評価したからだろうと感じていた。

2008年 ドラフト3位指名

 指名があっても下位指名の可能性が高かった中、阪神は3位で指名。大方の予想は、5~6位。セカンドが手薄で、盗塁走塁能力の高い選手が欲しい球団が獲得すると思われていた。

 阪神は、2008年に移籍してきた平野がレギュラーを獲得。二番手以降にも、藤本・関本・坂など多数の候補を擁していた為、指名には正直驚いた記憶がある。

 上本博紀はプロで活躍する。私はそう信じていたので、レギュラー候補がたくさんいる阪神に入団したので、出られるかどうかの心配していた。

プロ入り、選手会長、故障多発、模索

 プロ入り直後は、期待されながらも燻っていた。

 1年目から、ウエスタンリーグに88試合に出場するが、規定打席内最低打率(.241)を記録するなど、本来の魅力的な打撃は発揮できなかった。

 2年目の2010年に一軍初出場を果たすと、2011年2012年に60試合以上に出場。打率.250程度ながら二桁盗塁を記録するなど、徐々に存在感を発揮し始める。

 5年目の2013年。WBC開催の為、日本代表との強化試合に出場。ここから長い大怪我との戦いが始まる。
 この強化試合、6回の守備で伊藤隼太と交錯し、立ち上がれなくなるほどの大怪我をする。シーズン終盤戦に復帰したものの25試合の出場にとどまった。

 6年目の2014年は阪神選手会会長に就任。初の開幕一軍。開幕カードで西岡が故障し、そこから『1番セカンド上本』定着となった。
 4月10日には、プロ入り初のサヨナラ安打。この試合、私自身観に行ってたのだが、「プロでやっと持ち前の勝負強さを発揮できた。本当に良かった。」と安堵したのを鮮明に覚えている。
 この年、守備中の骨折で数試合欠場するものの、早期に戦線復帰。131試合に出場。初の規定打席到達となった。打撃成績では、特に.350を超える出塁率と盗塁20個が光った。
 不名誉ながら、失策17はセカンドとしてはリーグ最多。守備面の不安を露呈する結果となったのだが、それ以上の活躍で周囲も認める存在となった。

 翌2015年は打撃不振に苦しんだ。前年の活躍で、期待の大きな一年ではあったがレギュラーとして出場を続けた。
 8月4日には、守備中のダイビングキャッチで故障。半月ほどで戦線復帰したものの、9月12日には、左太もも肉離れが発覚。そのままシーズンを終え、108試合の出場にとどまった。

 2016年は、西岡のセカンド復帰でレギュラーを明け渡す形となった。その後一軍復帰していたが、6月には打撃練習中に腰痛発症。前屈できない状態にまでなっていたという。この年は、45試合の出場にとどまった。

 しかし、2017年。華麗な復活を遂げる。

 背番号を00に変更した2017年は、プロ入り初のランニング本塁打も記録。9月には月間打率.435と終盤に強い追い込みを見せる。
 最終的には、打率・本塁打・打点でキャリアハイの成績を叩き出した。
 この年は大きな怪我がなく、怪我無く乗り切れば一定以上の成績を残す事は証明された。相変わらず、ここ一番での勝負強さも発揮していた。

 迎えた2018年、セカンドにコンバートされた鳥谷や西岡との定位置争いに勝ち抜き、4月下旬にはレギュラーとして出場を続ける。
 打撃も絶好調で、5月頭まで、四割を超える打率を記録していたが、5月5日の試合中に負傷し検査の結果、左ひざ十字靭帯損傷が判明。この年、戦線に復帰する事はなかった。

 2019年は、右ひざ手術の影響化、打撃成績の低下が顕著で62試合の出場にとどまり、打率も二割を下回ってしまう。セカンド糸原の定着と共に、セカンドでの出場機会が激減した。

 2020年、今季はわずか25試合の出場。打撃も上向きになる事はなかった。
 対左投手に光明を見出せないかと、対左投手起用が多かったが、結果を残す事ができない。糸原戦線離脱もあったが、若手との併用が続いた事で、レギュラーは遠のいて行った。

 シーズン終盤、退団が発表され、最終戦出場のための一軍昇格が提案されたが、本人が固辞し、ファームで最終戦を終えた。

退団へ

 正直、今年で最後かもしれないな、と感じていた。

 やはり怪我に悩まされていた数年前の状況よりも、怪我の報告もないここ数年の状態が上がらない事への懸念の方が大きかったからだ。
 今年の矢野監督は、上本選手がどこか使える所がないかを模索するように起用法だった。糸原や木浪が左打者なので、右の上本選手を対左投手に起用すれば戦略として成り立つかもしれない、という意図が伝わって来ていた。

 しかし、そこで結果を出せなかった。年齢は34歳。まだ、ひと花咲かせられる可能性はあるが、当面の阪神タイガースの構想に入れる事が出来そうになかったのだろう。

 まだまだ走れるし、動きは若い。

 『来季保有していても良い予備の戦力』と考える事が出来たに違いないのだが、そこでリリースという選択したという事は、上本選手の「一軍のフィールドでプレーしたい」という意志を汲んだものだと感じている。

 決して、生え抜きの元レギュラー選手を冷遇したわけではないのだ。

上本博紀という天才

 私は常々、上本選手のことを『天才なのにおごりがないストイック過ぎる男』と評して来た。

 野球頭が良く、相手の癖を盗む事に長けていて、盗塁も多い。失敗もあるのだが、盗塁スタートを切るだけの勇気もある。

 ここ一番の場面では、決め打ちかと思う程見事に反応して打ち返す。極限の状態になればなるほど、真価を発揮していた。

 しかし、守備において、肩の弱さが欠点であるという事だけが足を引っ張り続けた。守備位置取りも難しかっただろう。それなのに、いつも全力でプレーしていた。

 心残りがあるとすれば、もっとクライマックスシリーズや日本シリーズでの躍動して欲しかった。

 シーズン終盤を怪我で終える事が多く、見られる機会がほとんどなかった事が悔やまれる。

 退団が発表され、最終戦に一軍昇格を固辞したのも上本選手らしい。若手が出場する機会を奪うことにもなってしまう。まだまだ続けてやるという気持ちも強いのだろう。

 どこか上本選手を獲得してくれると嬉しい。

 必ず、また甲子園でプレーする機会がありますように。

T-Akagi

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