「溺れる少女」の像がスペインで物議。
9月28日のロイター電です。
「オフェーリア」ですよね。
マリアさん曰く「見る人はそれぞれ違った意味を見出すことができるのではないか。それぞれの人に、それぞれの世界があるのだから」
OK。作者の死。
つまり読み手が作品を解釈することの自由について語っています。(もしくは読み手は読み手の自由にしか作品を解釈できない、ということを語っています)
お言葉に甘えて続けましょう。ちなみに書き手は、いっとう初めの読み手でもあります。
さて。
作品のタイトルは「ビハール」だそうです。バスク語では「明日」を意味するそうですが、英語、あるいはヒンズー語だとインドの地名になります。
ビハール州ガヤー県はブッダガヤの場所です。
なので作品名は「仏陀の悟り」という意味にもなりえます。
「仏陀の悟り」が「溺れる少女」の像を通して表現されたことが物議を醸している、とロイターは伝えています。
どうして「仏陀の悟り」が「溺れる少女」として表現可能になるのでしょうか?
その鍵は「オフェーリア」にあります。もちろん。
さらに、
じゃ、どうしてそれ(「溺れる少女」=「仏陀の悟り」)が「持続可能性と気候変動についての議論を促すために」なるのでしょうか?
その答えが「あおいのきせき」にあるのです。
ところで「女の子に何かが起こって、女の子の思い出を残すため作ったのだろうと思っていた」作品は、
「溺れる少女(オフェーリア)」でしょうか?
それとも「ビハール(あおいのきせき)」でしょうか?
いずれにせよ、その解釈(何かが起こった女の子についての思い出を残すために作品を作ったのだという感想)は間違っていた、ということが、スペイン北部ビルバオのマリアさんの口を通して語られています。
聖なる預言者といわれる者の母の名を持つ少女が、そういうのです。
ただ、しかし。
上に書かれた「読み」のために「溺れる少女」即ち「オフェーリアの語り手」は「あおい」である、と言い切ることには、作者としてためらいが残ります。
すると、そのためらいの核についても「あおいのきせき」が詳しい事に気づくのです。
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