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面倒くささには需要がある

久しぶり。



中秋の名月に見惚れてたのさ。きれいだった。ものすごく。

今宵の月夜も美しい。いや、今宵こそ1番。

今が至上なのである。



それはともかく、

最近、「Tempalay」というバンドにハマっている。

よかったら聞いてみてよ。

”大東京万博”、”あびばのんのん”とか。

すごくいい。すてきだ。




さて、本題。

タイトルにもあるけれど、再度。

”面倒くささには需要がある”


誰しもが面倒くささを持っている。いい意味でも、その逆も。

言い方を変えれば、クセ。



思えば、これはラーメン屋さんと似てる。

数あるラーメン屋さんも、それぞれが味や麺、スープや具材が異なる。

結果、独特のクセが生まれる。

そして、それぞれで好みが分かれる。


A:「ここのラーメン屋さんが(自分にとって)1番だ」

B:「そうかなあ」

といったように。


他の人にとっては、そのラーメン屋さんは1番ではないかもしれない。

でも、紛れもなく自分にとっては1番。

それでいい。

人それぞれに1番があっていい。

1番がみんな一緒である必要がどこにある?




何がいいたいか。

→クセは必ずしも欠点ではないということ。


自分ではネガティブに思っていることが、他の人からすれば、それは魅力として、またはトレードマークとして成立している場合がある、往々にして。


クセがないということは、奥行きがないということ。

平面的で、薄っぺらいのである。

吹けば飛んでいくようなものである。


むしろ、そのクセこそが、”それ”をそれ”たらしめる”貴重なキーワードなのかもしれない。


もしも、クセが全くない人というのが実在するのであれば、

それはつまり魅力が全くない人であることと同義なのである。









さあ、ここで、「クセ」を全て「面倒くささ」に置き換えて読み返してみてほしい。









どうだろう?

なんだか、めんどくさいのも悪くないかも?




私自身、すごく面倒くさい人間であると自覚している。

それでいいと思う。

そして、私の周りにいる人もまた、面倒くさい人が多い。


たまに、だるいときもある。

構わないときもある。


でも少しすると、思わず気になってしまうのである。

連絡をいれてしまうのである。


なにしろ、面倒で天邪鬼だからね。いいでしょう?

そしてこれは、需要と言う他ないのではないだろうか?







結論

・めんどくささとは、クセである。

・クセがないということは、薄っぺらさの証拠である。

・クセには、一定の需要がある。






洗濯機が終わるまでに書き終えるつもりが、既に30分もオーバーしている。

だから、ここまで。




最後に、

私は、私の周りにいる面倒くさい人を、ものすごく大事にしていくことを誓います。あなたたちが、ものすごく愛おしいのです。




それでは。

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