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麗しき毒蛇の復讐 第5章

第5章 言い訳  

目の前を幾つもの激しい火花が飛び散る。火が着いた何本もの角材が自分をめがけ落ちてくる。周りは一面、黄色と白い毒ガスで覆われていて、ガスのせいでのどが、肺が焼ける。
苦しい。息ができない。
ナイフで刺された腹部もひどく痛い。辺りは完全に火の海だ。
熱い。自分の髪の毛が燃えているのがわかる。熱い。私はここで焼け死ぬのか。
嫌だ……。
死にたくない。
やはり、こんなところで死にたくはない!。
熱い。焼け死ぬのは嫌だ。助けて。熱い。誰か。助け……。
その時、私の目の前でうつ伏せに倒れ、死んでいたはずのセーラー服姿の女がむくりと起き上がり、手に赤いヨーヨーを持って私のそばに近づいてきた。
女の目は真っ黒だ。あれは……、死神の目だ! 
セーラー服を着た女はヨーヨーからチェーンを引きずり出すと、チェーンを私の首に巻きつけた。女はチェーンを力いっぱい引っ張る。ギリギリと引っ張る。
苦しい。息ができない。助けて。なぜサキが? お前は死んだはず。なぜ麻宮サキは生き返った? 苦しい。熱い。痛い。助けて。
誰か……、誰かああ!
その時。途轍もなく激しい爆発音が辺りに轟くと同時に、凄まじい熱風と共に、ひときわ巨大な炎の塊が、私の目の前に押し寄せてきた。
ヒエッ。
やがて赤い炎が私の全身を……。

「きゃああああああああああああああああああああああ!」

麗奈が自分の絶叫で目を覚ました。ベッドの上でびっしょりと大量の汗をかいている。

まただ。またあの夢だ。
麻宮サキ生存の情報を得て以来、一時期は見ることがなくなった悪夢を、つい最近になって、また見るようになってしまった。
やはりサキを、麻宮サキをこの手で確実に始末しなければ、私はこの悪夢から逃れることはできないのだ。

埼玉県飯能市の中心部から北西に十キロメートルほど離れた秩父の山中に、一見普通の別荘風に見えるコンクリート造りの邸宅が建っている。周りをブナやカエデ、杉などの森林に囲まれた、多少大きめの建物という以外、見たところ特に変わったところはない。
一見目立たないように設置された数多くの監視カメラと、黒ずくめの男達が時折、周囲をうろつく以外は。

その地上三階、地下三階建て建物の最上階にある執務室には、複数のパソコンのモニターに囲まれた大きなデスクに一人座る麗奈の姿があった。
麗奈はこの三日間、屋敷の中にこもりっぱなしでいる。彼女は少々焦り始めていた。
与党の国会議員で今回の騒動を嗅ぎ付け、騒ぎ始めた奴がいるというのだ。
今はまだ抑えが効いているが、いつまで持つかはわからない。それに、間の抜けた人間はすぐにSNSで発信してしまう。

始末するか。
麗奈の脳裏にチラっと不埒な考えがよぎる。
やるなら早い方がいい。彼らならば、相手が国会議員といえど、こちら側の痕跡は何ひとつ残さず上手くやるはずだ。
麗奈は部下の脇坂を内線電話で執務室に呼び寄せた。

「脇坂。与党議員の山之内の件。速やかに始末なさい。方法はあなたに任せます」
「はっ。承知いたしました」
脇坂はすぐに麗奈の執務室を退去した。
しかし、C計画発動までには、まだ多くの時間が必要だ。それに今なお生き残っている、学生刑事とエージェントの動きも気になる。
特に何度も追い詰めながらその度に取り逃がしてきた、雨宮優子という学生刑事の存在。
それがかつての「ライバル」の存在と重なり、余計に麗奈を苛立たせる。
麗奈はもう一人の部下、槇原を呼び寄せた。

「槇原! 雨宮優子の所在はまだ掴めないの!」
「はっ! 東京駅で取り逃がした後、一度越谷市内にてスマートフォンの発信情報をキャッチしましたが、それ以降未だ消息は掴めておりせん」
「チッ」
麗奈の舌打ちが聞こえた。
「雨宮優子を探し出し始末するための人員を、これまでの二倍に増やしなさい!」
「はっ! しかし、これまでの戦闘で、こちらの工作員も数を減らしております。雨宮優子捜索のために人員をそちらに回すとなると、この屋敷の警備にも支障が生ずる恐れが……」
「かまいません!」
「はっ! 承知いたしました」
「それと麻宮サキの所在は? まだ確認できないの?」
「はっ! これまでに入った幾つかの情報は、全て別人と確認しました。現在も鋭意捜索中ではありますが、未だ発見に至っておりません」
「全く何か月経っていると思っているの! 急いで早く見付け出しなさい!」
「はっ!」

雨宮優子も気になるが、最大の問題は麻宮サキの所在である。
麻宮サキと接触した、かつてのサキを知る人物によると、多少歳を取っていたとはいえ、顔、声、利き手、何より「麻宮サキさんでは?」と突然尋ねられた時のかすかな、しかし明らかな狼狽ぶりから間違いないという。
それ以外にもいくつかの目撃情報を得、それらの情報を基にし、本格的な捜索を開始すれば麻宮サキの発見はすぐだと麗奈は考えていた。
あるいは暗闇機関を叩けば、麻宮サキが動き出すかとの期待もあったのだが……。
C計画発動前に、なんとしても必ずサキを見付け出さなければ、自分が日本に来た意味そのものがない。あの悪夢から逃れることも。
「サキ。いったいお前はどこに……」

優子の新しいアジトに、夕暮れの淡い光が差し込む。
たっぷりと休養を取り、優子の脇腹、腿、肩の傷もほぼ癒えた。
左腕はまだ痛みこそ少し残るが、通常のヨーヨーの操作ならば、何ら問題はない程度まで回復していた。
今、優子は必死になって右手でのヨーヨー操作の特訓をしている。今回の件で左手がダメになった場合でも、右手でヨーヨーが扱えるようになる必要性を痛感したのだ。
それに同時に二つのヨーヨーが使えれば、かなり有効な戦法になる。
これまで、右手でヨーヨーを使ったことはほとんどなかった優子だったが、最初こそ苦労はしたものの、すぐに自分でも驚くほど、みるみるうちに上達していった。左手と同等とまではいかないが、それなりに実戦に使えそうなレベルには達しつつある。

「どうして今まで右手、使わなかったんだろう。まあ、必要性も特に感じなかったんだけど」
ふと思い出す。
「そういえば、お母さん、両手でヨーヨー使えたっけ」

優子がまだ幼かった頃、母にヨーヨーを教えてもらっていたことを懐かしく振り返る。
まだ健在だった母は、器用に両手でヨーヨーを操って見せてくれた。母親も優子と同じ左利きだったが、右手でも左手でも全く同じように扱っていた。そんな母親に対しちょっぴり悔しかったのか、優子は頑なに利き腕の左手だけしか使おうとしなかったのだが。
「やっぱり私、お母さんの子なのよね」
右手で持ったヨーヨーを見つめながら優子が浮かべた涙に、日没直前の茜色をした夕日がきらりと光った。

数日後、優子の新しいスマートフォンに、東からのメッセージが届いた。それには次に落ち合う日時・場所と共に、海槌麗巳の居場所が判明したと記されていた。
「いよいよね」

その頃、麗奈が閉じこもる屋敷では、奇妙な事態が発生していた。
屋敷の周りの警備にあたっていた工作員が、巡回中に一人また一人と、気を失った状態で発見されていたのだ。
外傷はどこにもなく、目を覚ました工作員は全員熱病に侵されたように、ただうわごとを言うだけで全く使い物にならなくなっていた。
何らかの感染症、もしくは薬物の影響が疑われたが、R機関に属する医師の診断では特に何も異常はないという。

麗奈は改めて、監視カメラの録画映像を見てみた。
夜間、暗視ゴーグルを付けた一人の巡回中の工作員が、ふと立ち止まる。
首を左右に振ったあと、どこか一点を見つめるような様子をしていたかと思うと、やがてふらふらとし始め、そのまま仰向けに倒れていく。やはり特に不審な人物も物体も映っていない。
麗奈は部下に、巡回を必ず二人一組で行うよう命じた。だが、その後も事態は収まらず、ついに病室に収容された工作員の数は十一人にものぼった。
さすがに不安を覚えた麗奈は、雨宮優子捜索隊から多数の人員を割き、自分達の屋敷の警護に回す他なかった。
巡回はさらに人数を増やし、五人一組で行い始めた。
すると巡回の人員を増やした途端、奇妙な事態はピタリと収まった。

都内某所。
結花が長さ約三十センチメートル、直径二センチメートルほどの木の棒に括りつけられた糸で、折り鶴を吊るす。
折り鶴の下には、東西南北を示す板が置かれていた。
小さな梵字がいくつも刻まれた樫の木の棒と絹の糸、折り鶴を折った薄茶色の和紙。いずれも風魔の里で作られた特別な、かつ貴重なものだ。
折り鶴の首には、優子の黒い髪の毛が一本結び付けられている。その髪の毛は、優子が泊まった日に彼女に貸した新品のヘアブラシから採取していた。

結花が目を閉じ、左手の人差し指と中指を額に当て、何事かを小声でブツブツと念じると、じわり彼女の顔に汗がにじむ。
すると最初北を向いていた折り鶴はゆっくりと回転し始め、くちばしが南南西の方角をさし示した。直後、折り鶴が前後に傾きだし、頭がかなり上を向く。
「こっち。近いわ」

宮崎、達心寺にて。
「では、櫂庵和尚。風魔はすでに雨宮優子と接触しているということですか?」
国家保安委員会のメンバーを務める垣田誠一が尋ねた。
「偶然知り合ったらしいがの」
「しかし、唯さんも結花さんも、実績は承知しておりますが、もうそれなりのお歳。雨宮優子への助っ人とするならば、もう少し若い者に当たらせた方がよろしいのではないかと」
垣田は自分が知る、何人かの風魔の顔を思い浮かべながら櫂庵に語りかけた。
「風魔には、『風魔練魂修鍛の行』なる修行法がある。主にある程度歳を取った行者が行う修行法だが、短期間とはいえ、その者の身体能力を全盛期と同じくらい引き出せるようになる。だがそれは、大の男の行者でも五日で成し遂げるのか精一杯の修行だ。だがあの二人はそれを三日でやると宣言し、本当に三日で成し遂げよった。さすが、小太郎と小源太の娘というべきか」
「なるほど」
「おまけにあの短い間に、唯殿は『風魔操魂の術』、結花殿は『風魔探身の術』まで身に着けて帰っていきよった。どちらの術も誰しもができるという術ではない。人を選ぶ術だ。わしは何やら空恐ろしいものさえ感じた。今のあの二人は、まさに現在の風魔で最も恐ろしい使い手であると言える。あくまで短期間だがの。ただ修行の成果がどこまで続くかは人それぞれ。わしにもわからん。しかしあの二人なら、かなりの期間持続できるかもしれん」
「そうでしたか。よくわかりました。確かに、お二人共かつて学生刑事だったことですし、雨宮優子の立場もよくご理解なさるでしょう。櫂庵和尚、これまで色々と有益な情報をご提供いただきありがとうございました。この恩は必ず」
「まあ、それはよい。しかし暗闇さんのことは誠に残念だった。わしらもその仇討ちの一端を担うことができてうれしく思う。後は唯殿、結花殿に任せることとしよう」

夜の九時半をやや過ぎた時刻。優子は東との待ち合わせ場所へと向かっていた。
優子が乗り合わせた電車の車内は、仕事終わりや飲み会後の家路に向かう人達で少し混み合っている。
あちこちがほころんだ優子のセーラー服をじろじろ見るやつもいたが、気にしない。
周囲を酒臭い乗客に囲まれながら、優子は左手で電車のつり革を掴んだ。
(うん、痛くない。電車が揺れて力を込めるような時でも、もう痛みは感じない。それに通常のヨーヨーを手に入れた今、もうこれまでのような苦戦はせずに済むはず)
海槌麗巳の居所が判明したと知った今の優子には、どこか逸る気持ちが湧いていた。
早く麗巳の居場所が知りたい。早く仲間の仇を……。

待ち合わせ場所の最寄り駅まであとふた駅というところで、優子は車両内で複数の不審な人物を確認した。一見普通のサラリーマンのような白のワイシャツにダークスーツを着ているが、目付き顔付きが堅気の人間とは明らかに異なる。
(さっきまではいなかったのに)
優子がきつく唇を噛んだ。
このまま連中を、東との待ち合わせ場所まで引き連れていく訳にはいかない。
やむなく優子は途中下車を決めた。次の駅で電車を降りると、改札を抜け、街中へ足を進める。両手に黒い革手袋をはめながら、暗くひと気のない道を選び、そのまま歩いていった。
時折振り向きながら敵の様子を確認し、人数を数える。後を付けてくる連中に、まだ自分に襲いかかってくる様子は見受けられない。だが数は電車内で確認した時より明らかに多い。しかも途中で合流してきたのか、時間が経つにつれ人数が増えてきた。
十人? ……いや、後ろにもっといるか。
前方に薄暗い公園を見付けた優子は、一気に駆け出した。優子の後を追い、R機関の工作員達も一斉に走り出す。

優子と敵工作員が暗い公園内へと入り込むと、すぐに工作員達は優子を取り囲むように陣形を扇状に広げていった。
休養十分とはいえ、これだけの敵を相手にするのはかなり厄介だ。それでも、今の自分にはダブルヨーヨーがある。優子は両手にヨーヨーを構えた。
その時、一人の工作員が拳銃らしきものを構えているのを視界に捉えた優子は、慌てて身を翻す。銃のスライドが後退する、わずかなカシャッという音が聞こえ、同時にカメラのフラッシュのような閃光が目の端に見えた。
(やばい! サイレンサー付きの銃だ)
優子はまず左手のヨーヨーで、銃を持つ男を弾き飛ばした。しかしまた別の場所から銃弾が飛んでくる。
必死にかわし続けるが、九ミリの銃弾が右腕をかすめ、スカートを貫通していった。
(こいつら平気で街中で銃を使いやがって。銃弾が偶然通行人に当たったらどうするつもりだ)
優子の脳裏に沸々と怒りが沸き起こる。
早くこいつらを片付けなければ、一般市民に被害者が出かねない。
しかし、ナイフだけならまだなんとかなるが、十人以上の敵に、さらに銃まで使われるとなると、さすがに状況はかなり不利だ。優子は密かに焦った。
必死に二人目をヨーヨーで倒し、三人目の銃を左手のヨーヨーで弾き飛ばすと、すかさず右手のヨーヨーを工作員にぶつけ体を二メートルほど吹き飛ばした。
初めて実戦で右手のヨーヨーを使ったが、上手くいった。

ふと、優子が異変に気が付いた。あれだけ居たはずの敵の姿が、目の前で地面に転がっている三人以外、一人も見当たらない。
(逃げた? まさか……)
暗闇に目を凝らし、慎重に辺りを探すと、すぐ近くに敵工作員とおぼしき何人もの男達が、泡を吹いて地面にごろごろと転がっていた。
(いったい……何が起きたの?)
優子は事態が理解できず一人で戸惑っていると、自分の足元にわずかな街灯の光を受けて、銀色に光る折り鶴を見付けた。
「まさか!」
慎重に辺りを見回しながら、小声で「結花さん?」と呼びかけてみるが、返事はない。
敵はあと八人から十人ほどいたはず。まさか一人で……、ひょっとして唯さんも一緒?
優子は周りを見回した後、静かに折り鶴に一礼すると、東との待ち合わせ場所へ向かって急いで走って行った。

それを離れたところで見ていた結花と唯。お互いに顔を見合わせ、くすりと笑う。

尾行の有無の確認にやや時間を取られ、優子は少し遅れて待ち合わせの場所に到着した。
港近くの薄暗い公園に、東は一台のバイクに腰かけて待っていた。

「三分遅刻だ」
「ちょっと敵の襲撃に会っちまってね」
「言い訳か?」
「永遠に遅刻するよりはましだろ?」
優子のムッとした口調に、東は無言のまま微笑みを返した。
ふと優子のスカートに開いた、小さな穴を見付けた東が尋ねる。
「奴ら、人のいる街中で銃を使ってきたのか?」
「ああ。サイレンサー付き」
「奴らは明らかに焦っている。一人の女子高生相手にここまで手こずるとは、さすがに連中も思ってもみなかったんだろう」
「さあね?」
バイクから降りた東が優子に語りかけた。
「敵の本拠地が判明した。これが所在地と、建物の簡単な見取り図だ」
東が一枚の紙を優子に渡す。紙面には見取り図以外に、いくつかの書き込みがなされていた。
「このバイクが、そこまでの交通手段だ」
黒いライダースーツを優子に手渡しながら東が言った。
バイクはスズキのGSX250R。中・低速トルクの太い、見た目も割と優子の好きなタイプだ。
「それと、これがお前の自動二輪の新しい免許証だ」
元の免許証は、最後の作戦よりひとつ前の、仲間の学生刑事を助け出した作戦中に起きた火災の中で失ったままになっていた。かつて優子の愛車とも言えたHONDAのバイク、CBR250Rは、もっと以前にR機関との戦闘で失っていた。

「よく再発行できたね」
「本物とは限らん」
(ゲ、偽造かよ)
「偽物とも限らん」
(こいつ、ふざけてんのか?)
東の顔を睨み付けようとした時、優子は東の表情がどこかおかしいことに気付いた。
よく見るとワイシャツを透して、腹部に包帯が巻かれているのが見える。
「東! あんたケガを!」
「大したことはない。心配ない」
平静を装い無表情なまま、東が言う。
(東、あなたも無理してるのね)
「俺がお前にしてやれるのは、ここまでだ」
「十分過ぎるくらいさ。で、海槌麗巳はそこにいるんだろうね」
「ああ、間違いない」
(必ず、仲間達の仇は取る)
優子は改めて心の中で誓った。

セーラー服のままバイクにまたがりヘルメットをかぶった優子は、バイクのエンジンをかけると、東の顔を見つめた。
頷く東。
頷き返す優子。
すぐに優子はバイクの排気音と共に、暗い夜の街へと消えていった。

「ふう」
ひとつ安堵のため息をついた東が公園のベンチに腰を下ろす、と同時に脇腹の激痛に顔を歪めた。一気に大量の冷や汗が噴き出てくる。

(情けない。自分としたことが、この大事な時に何たるザマだ。しかし、このまま今の俺が優子に付いて行っても、確実に足手まといになるだけだ。それにあいつは俺をかばうために、自分が盾となりかねん。残念ながらここまで来た以上、もう優子一人に全てを任せる他ない)
優子が走り去った暗い道路を見つめる東が、ひとつの思いを込めてつぶやいた。
「生きて帰れよ。優子」

麗奈の執務室に部下の太田が現れた。
「麗奈様、ご報告申し上げます。先ほど入ったアメリカのRバイオケミカルラボからの連絡によると、ついに『コラープス』が完成したとのことです」
「そう。思ったより早かったわね」
「さらに近日中に量産化・兵器化の準備に入るとの報告も入りました」
「わかりました。ではその準備が整い次第、すぐに量産と兵器化を進めるよう伝えなさい」
「はっ!」

世界中の民族は、それぞれ遺伝子の中に特有のDNA配列を持つ。そのDNAのうち、ある特定のDNA配列が生み出す特殊なたんぱく質を持つ者のみに感染し、重篤な髄膜炎を発症させるウィルス。それがコラープスウィルス(Collapse Virus)、通称「Cウィルス」である。
麗奈の持つ研究所で偶然発見されたそのウィルスを、麗奈は対日本人用に改造するよう密かに命じ、極秘の研究の中、長い期間をかけて完成に近づけていた。
日本民族と日本の今ある社会システムを崩壊(Collapse)させるためのウィルスである。その致死率は、違法な人体実験の結果、二十五パーセントから五十パーセントと見込まれている。
合わせてコラープスウィルスに対する治療薬とワクチンの開発をあらかじめ進めておき、目途が立ったところで、まず密かに日本でウィルスを流行させ、日本人を大混乱に突き落とす。
その後、タイミングを見計らったところでまず治療薬、次にワクチン開発の成功を発表し、それらを独占供給することで、日本から莫大な利益を得ようというC計画。
治療薬は既存の抗ウィルス薬を改良することでほぼ完成の目途は付き、ワクチンの開発も最終段階に進んでいた。大規模な臨床試験こそまだだし、当局の認可を得るまではそれなりに時間がかかるだろう。だが、一から開発することになる他の製薬会社に比べ、大幅に先んじて日本に売り込むことができる。
日本中に感染が蔓延し、死者が続出し、日本国内が完全にパニックに陥る事態に立ち至った時、日本人は我々の要求に逆らえない、と麗奈は目論んでいた。
それに日本でしか流行しないウィルスに対し、豊富な開発資金を持つとはいえ外国の大手製薬会社が、迅速な治療薬やワクチン開発に乗り出すかは不透明だ。厚生労働省には緊急事態のため薬やワクチンの認可を早めるよう、例の老人たちによる圧力を強めてもらうこともできるだろう。
もしかすると、我々に疑いの目を向ける輩がいるかもしれないが、それなりの理由はすでに考えてある。Rバイオケミカルラボには他の新種のウィルスに対し、迅速なワクチン開発を行った実績もノウハウもある。時間と手間暇のかかる、ウィルスを弱毒化して作るワクチンではなく、最新の遺伝子工学を用いた独自のワクチン開発方法だ。
やがて労働人口の減った日本に、すかさず自らの企業グループが持つAI技術や人材、科学技術等を売り込み、日本社会を少しずつ麗奈好みのシステムに変えてゆく。そのための準備も麗奈はすでに始めていた。
ただ、極端に湿度に弱いCウィルスをそのまま空中に散布しても、あまり効果はない。生物兵器としての威力を最大限に発揮させるためには、ウィルス自体を特殊な膜で保護する必要がある。ウィルスが人間の体の中に取り込まれたあと、体内で自然に分解される膜だ。だがその問題も無事解決した。
あとは、未だ人から人への感染は確認されていないCウィルスの効果的な散布場所を選定し、適切な運搬手段を確保し、工作員がウィルスに曝露しないよう安全な散布方法を工夫する必要がある。しかし、それらの準備を終えるのに、そう長い時間はかからないだろう。

麗奈には案があった。
最初の散布場所を、成田などの国際空港や外国船が停泊する港周辺から散布を始め、次第に周囲に広げていくのだ。そうすればCウィルスが外国から流入し、自然に周りへと感染が拡大していったようにみえるだろう。何より、日本政府の初期対応を惑わし混乱させることができる。

待ってなさい。亜悠巳、久巳。あなた達の恨みを晴らすまで、もう少しよ。
麗奈はニヤリと唇を歪めた。

「では、これよりCSO(Cウィルス・スプレッド・オペレーション)は、フェイズ2に移行します。全工作員に通達し予定通り準備を進めます」
ピタリと両足の踵を合わせた太田が、麗奈に敬礼する。
「了解しました。くれぐれも抜かりないようにね」
不敵に微笑む麗奈。

つづく



ここまで読んでいただき、ありがとうございます。