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リモートワークと相談相手

1年以上フルリモートワークで働いてきて、それまでのオフィスワークとの違いがわかるようになってきた。コロナ禍によるリモートワークの普及は、人間の適応能力を超える速さで日々の生活の変化を強制していったように思う。

リモートワークがうまくいかない組織や人の記事は、探せばいくつもみつかる。私はそういった記事を読んだとき、その要因として、もともと業務の役割分担やタスク分割がうまくできていなかったのだろうと勝手に推量していた。しかし、自分でもリモートワークを続けてきて、それだけでもなさそうだと実感できてきた。本稿では私の違和感を整理してみようと思う。

孤独感や寂しさ

自宅やコワーキングスペースにしろ、リモートワークによって職場の同僚と物理的に同じスペースで働かなくなった。リモートワーカーの多くは独りで机に向かい、パソコンの前でキーボードを叩く日々を過ごすようになった。会議もテレビ会議なので移動する必要はなく、パソコンの前から動かない。パソコンの前から動くのは、食事、トイレ、気分転換に散歩に出かけるぐらいだろうか。

独りの時間をどう感じるかは人それぞれではあるが、次の記事では同僚と気軽に雑談できなくなったことや孤独感でストレスが溜まってしまうことが書かれている。

上記の記事からも引用されているが、社会的孤立や孤独感、一人暮らしの人は死亡リスクが高まるという健康に悪影響を及ぼすという研究結果もある。

1人で黙々と働くリモートワークが孤独感をもたらし、いくらか健康に害を及ぼしてしまい、結果として集中力や生産性に悪い影響を与えているのではないか。この研究結果からも理屈として通るかもしれない。

次の記事ではリモートワークに加え、コロナ禍における社会や生活の変化に適応できず体調を崩してしまったことが書かれている。私自身、ここまで追い込まれてはいないが、書いてある内容のいくつかは共感できる。そう思うと健康にいくらか影響を受けていてもおかしくない。

私はもともと他者とのコミュニケーションが苦手な方だったので孤独感に関しては問題ないだろうと考えていたし、実はいまもまだそう考えている。他者とのコミュニケーションの煩わしさと孤独感はトレードオフの関係にあると私は思う。どちらのメリットが上回るかは人それぞれであって、その人にあったメリットを上回る方を選択すればよいと考えている。

しかし、孤独感や寂しさによって健康を害するという研究結果もあるので、フルリモートワークではなくても、週◯日はオフィスワーク、残りの日はリモートワークのように人それぞれに選択できるのもよいと思う。組織として一律に日数を強制するのではなく、その人の感性 (健康) にあわせたリモートワークの在り方がよいのではないかといまは考えている。

一緒に行動する楽しさ

オフィスワークをしていた頃、私はなるべく同僚と一緒に昼食を食べに行くようにしていた。一緒に昼食を食べに行くうちに仲良くなることもあるし、仲が良いから一緒に昼食を食べに行くこともあるだろう。

孤独を避けるという文脈では一緒に昼食をとる行動も大きな意味をもっていたようにいまは考えられる。その根拠として同僚と昼食を食べたことに嫌な思い出は一切ない。

また昼食を食べに行く過程で同僚となにかしら話す機会がある。話すことの意義については後述する。

思考の外在化

心理学の用語で、心の中にある思考や感情などを外部に出す無意識の防衛機構のことを外在化 (externalization) と呼ぶ。wikipedia の説明を読む限り、不安から自分自身を守ろうとする正常な心の働きになるらしい。

外在化について、この記事では心の中にある不安や恐怖を客観視するための仕組みだという。

そして、外在化の手法として次の2つがある。

・書くこと
・話すこと

外在化について調べていて、ふと達人プログラマーという本のデバッグの節に書かれている次の内容を私は思い出した。

ゴムのアヒルちゃん
問題の原因を探し出すための非常に簡単で効果的なテクニックとして、「誰かに説明する」という手法があります。この場合の誰かは、あなたの肩越しにスクリーンを見ながら、(バスタブに浮いたゴムのアヒルちゃんのように)定期的にうなずくだけでよいのです。何も言う必要はありません。順を追って説明する、という単純な行為だけで、問題の原因は自ずと画面を飛び出して姿を現してくるのです * 3 。
これは簡単なように聞こえます。しかし他人に問題を説明するには、まずコードを精読し、その中に存在する暗黙の仮定を明確にしていかなければなりません。こういったいくつかの仮定を言葉で表すことで、問題に対する新たな見識が突如としてひらめくわけです。
https://t2y.hatenablog.jp/entry/2016/11/20/111443

私はこのデバッグのプラクティスを自分でも実践してきたし、その効果も実感しているので信頼している。いままで意識していなかったが、このデバッグのプラクティスも外在化の一種と言えるだろう。

余談だが、上述した記事で引用している内容は達人プログラマー第1版のもので、いまは第2版が出版されている。

書くこと

書くことが課題解決の手法として優れていることや、マインドフルネスの分野においても書く瞑想=ジャーナリングという手法が研究されていたりする。書くことが業務の生産性を高めたり、健康によい効果をもたらすことはインターネットをそういったキーワードで検索すればいくつも記事がみつかる。

とくにリモートワークは「書かない人」を「いない人」に変えてしまう。物理的に離れた場所で業務を始めると、あるメンバーがいま何をやっているか、どういう状況にあるか、その人の存在はテキストでしかみえなくなってしまう。

生産性の視点から、リモートワークがうまくできない人の中には、少なからず書かない人がいると私は考えている。その理由は、リモートワークが始まる前からも、私は組織における書かない人の存在に関心をもっていた。ここでいう書かないにも2種類ある。

・怠惰や多忙など、なんらかの理由により文章を書こうとしない
・状況や意見を文章として書き表す能力が低い

この見極め自体もなかなか難しい。後者の理由であれば、文章を書くスキルを身につけるよう指導できる。しかし、前者の理由であれば、個別にその理由を排除しなければならないため、それぞれの事情にあった指導が必要になってしまう。

とくにマネージャーやリーダーが書かないと、そのチームのメンバーは情報共有がうまくいかなかったり、業務指示を誤解したりなど、チームとして協調がうまくいかないという可視化されにくい問題が生じる。私の経験則では、書かない人にもっと書いてほしいと伝えてもその姿勢を改めたことはあまり記憶にない。若い人は上司や先輩に指導されて改善する機会があるが、とくに年配の人は周りが諦めて注意しなくなってしまうため、放置されてしまう傾向があるように思える。

いま述べたことは組織やチームにおける生産性の視点からのみであるが、書かない人にとっては健康の視点からストレスを抱えている可能性もある。

書くことは考えることであり、書かない人の中にはうまく考えられないという傷を負っている可能性がある。本稿ではこの詳細について踏み込まないが、次の記事で「考えないという傷」について紹介している。

やや話題がズレてきたので本題に戻る。

リモートワークではテキストによるコミュニケーションが基本になるので自分がやっていることや状況を文章で表現するスキルが求められる。私の場合、これまで業務に関して課題管理システムを使って管理してきた。この働き方はオフィスワークでもリモートワークでもやっていることは全く変わらない。

課題管理システムはチケットという単位で課題を複数のタスクに分割できるところが優れている。そして、チケットにはそのタスクを完了させるために調べたこと、考えたこと、懸念に思ったことなど、コメントとして何でも書いている。私の場合、1つのチケットのコメント数は、数十から百程度で収まるのが適当な粒度だと考えている。それ以上になってしまいそうなときは、チケット作成時の見積もりの失敗を認めて、そのチケットを複数のチケットに分割したりもする。

余談だが、課題管理システムのチケットへのコメントはフロー情報のタイムラインとしても使える。そのタイムラインをチームが監視できる状態にする、具体的には通知をメールやチャットツールに流すことでチームにおける情報共有にも利用できる。フローを監視していれば、メンバーの状況に応じて適切な助言ができたり、進捗にあわせて別の作業を準備しておくといった協調も行いやすい。

私の場合、リモートワークにより、独りで仕事をしていても、いまやっている課題に関して常に自身の考えを書き出しながら働くというスタイルに変化はなかった。したがって、書くことは私にとって、オフィスワークとリモートワークの違いではあまり影響を受けなかったと言える。

話すこと

1年以上フルリモートワークで働いてきて最も大きな変化が話す機会の減少だったように思える。リモートワークを始めた頃、その変化がどういった影響を及ぼすか、私にはよくわかっていなかった。なんとなく違和感を感じながら、その正体について1年近く経ってから考えるようになった。

孤独感の節でも書いたように、私はもともとコミュニケーションが苦手な方だったので他者と話さなくても平気だろうとずっと考えてきた。しかし、その考えは誤りであったといま認めるために本稿を書いている。いまとなっては昼食時の雑談も意味はあったと言える。

リモートワークのテレビ会議は基本的に用事がないと話しかけにくい。ちょっと気になるといった程度で同僚にテレビ会議を設定して話しかけるには敷居が高い。もしくは、少しやり取りして、しばらく考えて (もしくは作業して)、また少しやり取りするといた、時間をあけて繰り返し話すということもやりにくい。

基本的にテレビ会議は1人しか話せない。例えば、参加者が5人いたとして、2人と3人でちょっと雑談するといったことは1つのセッションでは同時にできない。

もっといろんなパターンがあるだろうが、オフィスワークと比べて同僚と話す機会が減る傾向にあるのは間違いないだろう。そこで、なぜ話す機会や雑談が減ることで生産性に影響がでるのかを考察してみる。

書かないときの気付きが埋もれる

自身の知識不足で説明が難しい事象、例えば、なにかエラーが発生するがその調査をするための検索キーワードがわからないようなときは、書くよりも話した方が効率がよかったりする。

とくにその時点で大して重要ではないと考えている情報は書くコストが高くなるほど労力に見合わないので書かない傾向がある。つまり、書くコストの方が話すコストよりも高くなるとき、いわば、書くほどでもないことを放置しがちになる。

何気なく同僚に質問して話しているうちに独りでは得られなかった他者の視点から想定外の気付きを得られることがある。重要ではないと思っていたことが実は重要だったと気付くこともあるだろう。

書くことと話すことの内容がまったく同じであれば、話すことによる追加の気付きは発生しない。しかし、実際は書くことと話すことでは、異なる内容を扱うことが多い。書きやすい情報もあれば、話しやすい情報もある。

他者の問いから気付きを得る

自分の中でまだ考えがまとまっていない状態のとき、書くコストよりも話すコストの方が低くなるときがある。多くのケースで書くときは、独りで考えながら書く。そこには考えをまとめている段階でのフィードバックが行われない。一方、考えながら他者へ話すとき、聞いている人から質問という形でフィードバックを受けることがある。このフィードバックが考えを整理するのに役立つことがある。

とくに自分にとっての前提が他者にとって異なるときもある。この歪みや偏見を Unconscious Bias (無意識バイアス) と呼ぶ。自身の考えが曖昧な状態のときに他者からフィードバックを得ることで早い段階で誤った前提を正すきっかけになることがある。

コミュニケーションが苦手だから話さないわけではない

過去を思い返してみると、私は理屈が通らないとき、なにか引っ掛かりがあってもやもやするときなどは、身近な同僚に尋ねてみることも多かった。いわゆる雑談の一種と言えるだろう。

コミュニケーションが苦手であろうと、やり取りが面倒だったり煩わしかったりしたとしても、それ以上に知りたいという欲求や分からないという不安を解消したいと思う気持ちの方がずっと強かったことに改めて気付いた。苦手で嫌だと思っていたのは、そうじゃないパターンの煩わしさだけが強調されて苦手意識になっていたように思う。

つまり、コミュニケーションの得意・不得意は私にとって話すことそのものとあまり関係がなかったことに気付いた。

相談相手をもつこと

ちょうど起業したタイミングでフルリモートワークで働くことを決めた。その後、すぐにコロナ禍でリモートワークが推奨されるようになり、フルリモートワークの働き方に転向したばかりの私にとってはあまり影響を与えなかった。

まずは他社のシステム開発のお手伝いをしていた。他社のお仕事であってもチームで働くときはこれまでの働き方と比較してそう大きな違いがあるようには思わなかった。

しかし、ひとり起業なので自分の会社の業務はひとりで行うしかない。また、ひとりで開発する新規の案件を受けたことがあった。一定期間 (数ヶ月) 、ひとりで業務を行ってみた結果、あまりうまくいかないことに気付いた。ひとりでもタスクは淡々とこなせるが、それまでの働き方となにか違和感を感じていた。

これまでに書いた節から「孤独感」の影響も少しあるかもしれないが、私はあまりそう感じない。「書くこと」も自社の課題管理システムを通して継続している。大きな違いとして「話すこと」がなくなった影響ではないかと考えるようになった。ひとり起業なのでひとりで行っている業務について話す相手が誰もいない。前節に書いたような、話すことで自身の考えを整理したり、他者からのフィードバックから気付きを得ていたことがなくなったことが悪影響を及ぼしているのではないか。

他者と話すことでなんらかのフィードバックがあり、それが考えることに対する刺激になっていた。話さないことでその刺激そのものがなくなり、それが続くことによって新しい発見や気付きがなくなってしまうというサイクルに陥ってしまっていた。

そこで知人に顧問になってもらうことをお願いした。顧問として知人に相談するようになってから違和感の正体が少しわかった。ひとり会社に顧問が必要なのか?と懐疑的に思うかもしれない。いまとなっては、ひとり会社ほど顧問がいた方がよいと考えるようになった。

相談相手がいるから「書くこと」も「話すこと」もある

課題管理システムは時系列に考えたことや起こったことを書くことで個別の課題に対する過程の記録に優れている。そして、振り返りとして、自分が書いた過程の記録を見返すと、なんとなく自分の中ではわかった気になってしまう。本当にわかっているかどうかを確認するために別のアウトプットに外在化すべきではあるが、わかった気になっていると怠けてさぼってしまう。

あるとき、業務でうまくいかなかった失敗を相談しようと考えたとき、相談相手に伝えるための資料を作っていて、自分ひとりだとこの資料を作ることはまずなかったであろうことに気付いた。ひとりで振り返りをしていれば、過程の記録を見返して終わっていただろう。

何も知らない相談相手に説明しようとしたとき、過程の記録から総括としての資料を作るモチベーションになっていた。そして、資料を作って相談の機会を設けることで話し、フィードバックを得られる。外在化の文脈において、書くことと話すことの量が増えている。誰か相手がいることのありがたみを感じた。

ひとりだとわかった気になってやらないことがある。過去に会社で働いていたとき、一見、無駄にみえるような業務もなにかしらの意味はあったのかもしれないと思い返すようになった。普通に会社で働いているときの方が、書くことと話すことを求められる機会が多かった。

この反省を踏まえ、要否や重要度に関係なく、定期的に誰かに相談する機会を作ることに私は決めた。

まとめ

中国のことわざに身在福中不知福というのがある。

<諺>幸せに暮らしている人は自分の幸せを知らない;
<喩>はたから見ると幸福な身分の人がなお不平不満をこぼす.

オフィスワークからリモートワークへの急な変化によって、私はオフィスワークのときに無自覚に享受していたものを見失っていた。雑談がチームの生産性に寄与することを知識としてわかっていたつもりだったが、いつの間にか、そのことを軽視した環境に変えてしまっていた。

本稿では、リモートワークにおける孤独感、書くこと、話すことについて考察した。そして、私の場合、話すことが減り、(特にひとり業務は) 相談相手がいなくなったことの悪影響を認め、その対策として顧問をお願いすることにした。

オフィスワークのときに当たり前にできていたことがリモートワークによって、当たり前にできなくなり、一定期間を経てその影響が現れることもある。リモートワークで見た目上、業務は遂行できるが、なにか違和感を感じている人は多いのではないかと思う。

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